「ねえ、知ってる?」
 たとえば俺たちが共有している、幾つかの事柄を名字が嬉しそうにどこか得意げに話すとき。

 土砂降りの中で鳴く蜩。昨日のテレビ。どうでもいいCMのこと。教室の置き傘を使ったら穴が開いていて役に立たなかった時のこと。夕立の匂いとか暗い帰り道でコンビニの明かりにほっとすること。
 雷、大雨、それから入道雲の八月の形。
 そういったものをいつまでも覚えていたかった。少なくとも、俺は、きっと。
 名字もおそらく、そうであったのだと思う。別にそんなことを、お互い話し合ったことはない。そんなの恥ずかしいことだし、そんな必要はなかった。ただいつも、並んで帰った。時々、寄り道も。友達で、それから特別だった。
 名字が俺の分のテニスバッグを背負って、俺が名字の自転車を漕ぐなんてこともあったのだ。自転車の後ろに立った名字は、色々な話をした。
 俺は相槌を打って、時々口をはさみ、そして少し笑った。
 肩に置かれた名字の細い手のひらのしっとりとした重みを、覚えている。
 ある日名字は髪の毛を切った。少しあどけなくなって、でもきれいになった。
 時々俺には、名字の自転車を漕いでいるのが不思議で、名字を後ろに乗せていることも不思議だった。

「送ってくれるの?」
 びっくりしてもっとまん丸になった目玉。

 名字のあの白い指先は今も、決まった鍵盤の上を滑っているのだろうか。何で一緒に帰るようになったんだったか。きっかけは些細で忘れてしまった。帰る方向が一緒だからとか、偶然一度帰る時間が被ったとか、多分、そんなものなのだ。(嘘だ。)(本当は、ちゃんと、覚えている。)(だけどそんなの、照れくさくって!)
 とにかく名字を後ろに乗っけて俺は走ったし、名字はしっかりつかまっていた。
 名字は中学からの外部進学組だったのだけれど、中学受験をしてきたのなら、ずっとこの学園にいるはずだと、俺は思い込んでいた。そもそも幼稚園からエスカレーター(あがり)の学校にいて、高校受験だとかそんなことは思いもよらなくて、当然同じに、高校へも通うのだと思っていた。

 思えば、俺たちはお互いの話をしても自分の話をしなかったのだ。何になりたいとか、どこへ行きたいだとか。部活であの人に追いつくことや、誰にも負けないこと、それから学校の勉強と宿題と、家の猫のこと、空の色のこと、明日の天気と、名字のこと。それだけで日々はいっぱいだった。
 何になりたいだとか、どこへ行きたいだとか。
 目指すのはあの天辺だけで、行きたいのもそこだけだ。
 だから名字が、どこかへいってしまうなんて、思いもよらなかったのだ。

 氷帝の高等部の制服は、かわいらしいもので、名字はたまにポツンと「いいなあ、着たいなぁ。」と言った。
「着られるだろ、普通に。」
 そういった俺に、名字が顔中で笑ったのを、見なくたって知っていた。


(草のオルガン)