近道をしようとそう思った。

 テスト期間で、部活は禁止だ。よく晴れていて、道の向こうまではっきりよく見えた。まだ明るいうちに帰るのは久しぶりで、普段なら気がつかない道を見つけた。
 細い路地だ。
 しかしまっすぐ抜ければ、家へ早く着くかもしれない。というのは建前で、気になった。なんとなく。あまりにその路地の向こうが、明るく見えたから。

 路地を抜けると、広い道に出た。広いが人影も店も見当たらず、工事中という塀に囲まれただだっ広い土地が広がっている。まだ東京に、こんな土地があるとは思わず驚いた。
 少し歩く。
 塀は切れ切れに、その向こうに放置されて草が伸び放題の、空き地が見える。
 ふと、目の前に自転車が放り出されているのを見つける。いかにもたった今乗り捨てましたと言った風情で、どうみても若干不審だった。

 そうしてぐるりとそこらを見回して、名字を見つけた。

 このご時勢に珍しい、この目の前に広がるだだっ広い草原。ぐるりと柵に囲まれて、草はぎっしりと生い茂って。こんなところに足を踏み入れたがるやつなんていそうにない。だというのに。
 夏の初めで背のそろった草の上を、風が吹いている。
 緑、緑。緑。そこに名字がいた。
 ぽつんと小指ほどの大きさに見える。その草っぱらの真ん中に、名字が立っている。
 風が吹く。背中のほうへ、空き地から、吹き込んでいく。

 名字と、それから、オルガンだ。遠目にもわかる、小学校の音楽準備室にあったような、古くて、ボロボロの、木でできたオルガン。足で踏んで空気を送るやつ。
 自転車を見ると、さっきは気付かなかったネームシールに『名字』。自転車道路にほっぽり出して、名字がオルガンを弾いていた。
(ドーレーミー。)
 空はぽかんと高くて真っ青で、草の海。
 人差し指で、名字がオルガンと遊んでいる。
(ドー、ドーレー、)
 ミ。ふと気がついたように、名字が顔を上げた。遠くから目が合う。風が吹く。

「あ、」
 向こうも同じように、俺が誰だか気づいたのだ。あ、と口の形が動く。ひよしくん、とそれからそう言ったようだ。同じクラスになってから、初めて名を呼ばれたのではないだろうか?
 なんと言おうか。黙って見ていたことがなんとなく恥じられた。
 草がガヤガヤと笑う。

「蛇が出るぞ。」

 それに名字が、目をまん丸にして、それから笑った。


(草のオルガン)
(酒井駒子さんの絵本がすきです)