電話なら通じるよ。
そのささやきは悪魔のひらめきによるものだったかもしれないけれど、少なくとも兄ちゃんにとっては、どんな美しい神さまよりも、ずっとやさしい囁きだったのです。天使のなみだや緑の指した幼子のかけてくれるあわれみより、兄ちゃんが最後についた大きな嘘は、あんまり優しいので、俺は怒るに怒れないのです。
電話なら通じるよ。
携帯持っていくからだいじょうぶ、だいじょうぶ。
(さみしくないからね。)
誰にその嘘が責められるだろう。その言葉、聞いたときのの顔、思い浮かべなくても想像つくから、俺はなんにも言えなくなるのです。
――頼むなジロ。
だからしかたないなぁって大あくびをひとつ。
頼まれてしまった。頼むなって言われてしまった。だから俺は真夜中の縁に腰をかけて、電話番をしている。泣かないでって誰にともなく呟いて、ラジオからはグッドミュージック。夜だよ、まっくらな夜だ、涙ふいてお眠りよ。涙は寂しいよ、まぁるくなってお眠りよ。
「おやすみぃ、」
手の中でだいぶん旧式のぼろぼろ、赤い携帯電話が光るまで、今夜も俺は眠らない。夜の窓から眺める景色は、毎日変わんないね。角の電灯、ひとつ壊れてらあ。真夜中の商店街なんて、さびしいだけだね。スクールゾーンの看板、ずいぶん褪せてやがる。
こんばんは、げんき?泣かないで、さびしくないからね。
言葉を尽くしてきてはみたけど、俺の言葉は多分届かず。いつでも兄ちゃんの嘘ばかりがそおっとあの子の涙を拭うので、やっぱり俺は電話が鳴るのを待つのです。俺が珈琲ブラックで飲めるのを、知ってるやつはいないと思うな。
考えてからもう一度、大あくびをひとつ。
そう、だから。だからなんだよ、と誰にとも無く呟いて。
だから昼間は眠たくって、君の顔がまともに見れないのだ。
決して、けっして、たぶん、おそらく、きっと、うん、きっとね、別に嘘つきの手伝いしてるからじゃ、ないんだよ。
話をしなくなってずいぶん経つ。昼間の光は明るすぎるし、直接話すってのは近すぎて、いけないな。毛布の中はあったかい、電話越しの会話はいつだって夢心地、俺の声を君は知らない。チカチカまたたくネオンが、うるさくっていけない。温暖化が激しくても都会が眩しくても、この商店街では破れたアーケード越しに、星はまだ見えている。約束したからね、まだ頑なに夜に住んでいます。ここにいれば電話は通じるよ。夜は多分空気が澄むから天国が近くなる。知ってた?だってほら、昼間ってうるさくってさ、星だって見えないくらいだろ。約束したからね。
眠たい思考は取りとめもなく、脈絡もなにもあったもんじゃなく。時々何を考えているのかわからなくなる。ただ確かなことはひとつだけ。電話を待つ、それだけでいい。
だから俺は真夜中の縁に腰掛けて、電話番している。
眠たいのも平気だよ。もしもし、もしもし。ねえ、聞こえてる?
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