夜中に俺は、時々でたらめにダイヤルを押してみる。ひょっとしたら兄ちゃんに繋がるかもしれないじゃないか。そしたら俺は、「ぜったい切らないでよ!」って叫んで真夜中の商店街駆け抜けての家の扉、叩くのに。
 電話だよ、。兄ちゃんからだよ、ずっとずっとずっと、兄ちゃんと話したがってたにちがいないんだ、だから俺ね、ダッシュで電話持って商店街の端っこから走ってきたよ。走って走って走ってね、星が流れる夜だね、おっきくなったね、、俺、走ってきたよ、まだ電話切れてないよ、走ってきたんだ、

「はしって…きた、よ。むにゃ、」

「こーら、ジロ。いい加減起きな!朝練だろ!」
「にーちゃ、あされんあされん!」
「…よ?」

 世界はさかさまだ。かわいい妹の顔までさかさまだ。
「ほら、起きる!」
 パジャマの襟首掴まれたと思ったらぐいーんと持ち上げられて世界のさかさが元に戻った。朝の光、カーテンから漏れている。畳の上にまっすぐ光の道。窓の形してる。ベッドで眠ったはずなのに、布団から落っこちたまま寝てたらしい。それでも毛布ははなさなかったから、まんまるになって安眠あんみん。いつものこと。いつ寝たかなんて覚えていない。ああ朝が来た。俺はまだ眠たい。
「いい、もう起こしにこないからね!起きなよ!」
「…あい、」
 眠たい。
 にーちゃにーちゃと妹がひっぱるのでしかたなく起きて、顔を洗う。朝、妹は俺をちゃんと起こして送り出すという使命に燃えている。なにぶんその様子と来たらかわいらしい、つまりは逆らえないので俺はちゃんとおきて準備をする。なるべく。
 ちゃぶ台で妹と並んで飯を食う。兄貴はまだ寝ている。いっつも今日は昼から授業だと言うので、大学生っていいなと思う。俺もだいがくせいになりたい。
 歯を磨きながら鏡を見たらずいぶん頭がバクハツしていて、なんて言ったっけ、山吹のラッキー君みたいになってた。虫歯はひとつもない。ちょっと自慢だ。それからのろのろ高等部のブレザーを着て、テニスバックを持つ。忘れ物は、あっても知らない。
「いってきまぁす。…ふわ、」
「いってらっしゃーい!」
 後ろでにヒラヒラ手を振って家を出る。シャボンのにおい。のろのろ商店街を抜ける。みんな朝早いから、「おはようジロちゃん!」だとか「おー今日もがんばれよ!」とか言ってくれる。やっぱり俺はヒラヒラ手を振りながら、商店街を抜けきるときだけ、ちょっと目を覚まして背筋を伸ばして歩く。
 書房の前だから。
 この店の前を通るときは、注意しなくっちゃいけない。なにせ俺は、ある、重大な"ニンム"をもう7年も続けていて、それはこの店に住んでいる女の子に関係あることなのだ。だから、俺は、ばれないように、しなくっちゃいけないのだ。話をするなんてとんでもないし、目も合わせない方がいい。に、決まってる。
 背筋に力を入れて、店の窓は見ないように。
 通り過ぎた後はぜったい疲れる。疲れて2倍、猫背になる。力を抜くのと同時に、自分がやってることがむちゃくちゃ馬鹿らしく思えるけど、やめないのはどうしてだろう。少し横目で、本屋の2階の窓を見る。白いレースのカーテン、きっちり閉まっていて、たぶんまだ寝ているんだろうな。昨日もずいぶん遅くまで、話していた。まあ俺には、関係ないけど。
 空き缶を蹴ったら大して飛ばなかった。
 拾ってゴミ箱に捨てる。
 こうして毎朝眠たい身体に鞭打って、書房を通り過ぎるたび、こんな面倒くさくてしんどくって疲れる馬鹿馬鹿しいことはやめようと思う。それでも俺は夜のために昼日中のほとんどを睡眠に費やし、日が暮れると砂糖の入っていない珈琲をたっぷりと飲む。そんな馬鹿馬鹿しいことを高校二年生になっても続けているのは、死人との約束だからだと、たまに俺は心のそこから疲れたとき、珈琲で痺れた舌の先で、ちょっとだけ、思う。