俺はその兄ちゃんが、だいすきだったのである。
兄貴よりずっと、うん、好きだな、うん。優しいし、物知りで、俺のこと怒ったりしない。いつも病院の窓開けて、風に吹かれていた。兄貴とは昔公園駆け回って遊んでいたらしいが、俺の記憶にある兄ちゃんは、常にそうして夕焼け色の光の中で、窓を開けて風に吹かれている。パジャマの下の身体が薄かった。妙にそのことばかり思い出す。目玉も妙に、優しくって、布団の上に行儀良くそろえられた指先。昼間にだってお見舞い、行ったはずなのに、どうして記憶の中204号室は常に夕焼けなのだろうな。わかんないや。
むかしのこと。
兄ちゃんはの兄ちゃんだ。兄ちゃんはベッドの上から身動きとれなかったけど、一緒にあそぶことはできた。窓から入ったり猫連れていったり他にもいろいろ。204号室は俺たちの秘密基地で、会議室だった。いろんなものを持ち込んで、おっかない看護士のおばさんに怒られたもんだ。なつかしいな。
でもあの日は勝手が違った。「お前は待ってろ、」って病室に入ったきり、兄貴は1時間も出てこなかった。扉のとこで聞き耳立てるのも飽きて(もちろんなに話してるか聞こえない)、俺は病院の廊下のソファでいびきかいて寝てた。
起きたらやっぱりその日も夕焼けで、バン!と扉が開く音。
「勝手にしろ!俺は知らねえからな!ばかずや!」
ソファの背もたれに隠れて兄貴が肩を怒らせて顔を真っ赤にしながら204号室を出て行くのを見た。ひょっとしたら泣いてたのかもしれない。あたりは夕焼けの反射できらきらオレンジに光って、少し夢の国にいるみたいだと思った。なんとなく怖くて、そおっと病室を覗いたら兄ちゃんはやっぱり風に吹かれて窓の外を見ていた。
「…にいちゃん?」
そおっと呼んだら振り返った。いつもの笑顔。にこって肩の力が抜けるんだ。
「ジロ、」
帰ったのかと思った、と言って兄ちゃんが笑って、ずり落ちそうなカーディガンを肩にかけなおしながらおいでと言った。俺はいままで兄貴が座っていただろう椅子を、ちゃんとまっすぐベッドに水平に直して座った。
「ケンカしちゃった。」
「めずらしーね!」
肩を竦めて兄ちゃんが笑う。
「俺、もうすぐ死ぬんだよ。」
夕焼けで部屋が真っ赤だ。光るものぜんぶ、キラキラキラって反射して、少し夢の国みたい。兄ちゃんの笑顔はいつもと同じ。やさしいやさしい兄ちゃん。ああ、兄ちゃんが俺の兄貴ならよかったのに!なのにどうして、兄ちゃんは「ケンカしちゃった」や「ジロ」と俺を呼ぶときや、それとちっとも変わらない響きでもうすぐ俺は死ぬんだよ、と目を見開いたまま引きつった俺の顔に向かって笑顔を見せるのだろう。
喉の奥がヒクリとした。うそ、と反射的に言った俺に、「嘘じゃないよ、」とにこにこしたまま兄ちゃんが言う。プリン食べる?とたずねるときと同じ響きで。兄ちゃんの顔の半分が、直接夕陽を浴びて金色だ。ほとけさまみたい。「が泣くよ、」自分で言って、そう考えて、それからぞっとする。「そうだね。」と兄ちゃんが残念そうに頷く。嘘じゃないのだ。
「やだよそんなの!」
ガターンと椅子が立ち上がった拍子に後ろに飛んでいった。兄貴もきっとこうやって、椅子を吹っ飛ばしたんだろう。
「俺だってやだよ。」
兄ちゃんは動じない。
「いやだ!」
「いやいや言ってもしょーがないだろ。」
「やだあー!!ううう う ううっやだったらやだぁ!」
仕方がないなぁと笑われてますます涙がでた。どうして俺が泣いて、兄ちゃんが慰めてるのだろうか。あべこべだと思ったけどどうにもならない。兄ちゃんは笑ってばっかりだ。初めてその笑顔がにくらしかった。細い腕。昨日となにもかわらない。えいえんにこうして、204号室にいるのだと、俺は思っていた。それはそれで残酷。子供ってこわい。
「ジロー隊員、」
兄ちゃんが呼んだ。204号室は、商店街の平和を守る防衛軍の秘密基地で、作品会議室だ。兄貴が隊長、兄ちゃんが参謀、俺が隊員。は女の子だから仲間に入れてあげない。っていうのは半分嘘で、は俺たちが守るおひめさまなのです。というせってい。今思うと恥ずかしいもんだ。でも、まあまだ10歳だし。
「うっ、うぇ、は、はい」
「君に最後の任務を言い渡す。」
「ニンム?」
骨ばった、というよりほとんど骨と皮だけの手が、俺の手に最後のニンムを乗せた。ああ、兄ちゃんの手、こんなに痩せてたっけ?
「…けー、たい?」
「…………がかけてくるから。」
はっとして顔を上げると兄ちゃんは真っ赤な夕焼けに照らされて笑ってた。
「頼むな、ジロー。俺、天国でも電話通じるって言っちゃったんだ。」
痩せきった身体で笑う男の子、だあれ。夕焼けが兄ちゃんを隠してしまった。噫あの赤ばっかり胸にあるから、俺は眠れないのだ。きっとそう、きっと。きっと。 |