噫眠たいな、眠たいな。
『…もしもし?うん。私。元気。あのね、…』
 どんな顔して話しているのだろう。俺はもうずいぶんくたびれた気がするな。兄ちゃんの口調を、すこし間延びした話し方の癖を、忘れてしまいそうに思う。眠たくって、いけないな。珈琲が足りない。
 携帯電話はこういうときに便利だ。俺は電話したまま立ち上がって、部屋にある電気ポットで珈琲を作る。お湯はたっぷり2リットル入る。向日電気の大安売りで、ずいぶん前にお年玉はたいて買ったポット。買って以来ずっと、俺の部屋で大活躍している。
 部屋の戸棚にはでっかいインスタントコーヒーの瓶と赤いマグカップ。いつでも切らしてしまわないように、ちゃんと置いてある。時々俺は、眠らないために珈琲を飲んでいるのか、せいしんを落ち着けるために飲んでいるのか、わからなくなる時がある。カップにお湯を注ぐ。珈琲の匂い。もうずいぶん部屋中に染み付いて、それでも何度嗅いでも淹れたての匂いはあったかい。
「うん。」
 聞いてるよ、と言いながらベッドに座る。
 変わらない景色。破れたアーケード、そこから覗く星。宇宙飛行士になりたい。携帯の電波が届かない、オゾンの上に行きたい。
『今日はね、…学校でジロくんに会ったよ。』
「…そう。」
 たまに が、俺の話を出すと、俺は心臓につめたい手でも乗せられたみたいにヒヤリとしてしまう。でも兄ちゃんは、きっと話を逸らしたりしないで、俺が元気にしてるか聞きたがるだろう。だから、俺は、相槌打つ。窓の外のネオンがジリリと焦げて揺れる。でっかい蛾だ。重そうな身体して、飛んでいる。
『ずーっと寝てるの。またお話できなかったの。』
「寝てるの?」
『そう。寝てる。』
 ふふ、と受話器の向こうでが笑った。なんだか困っているようにも聞こえて、俺はもう一度カップに湯を注ぐ。濃すぎた。受話器越しでも沈黙は作られる。少しが黙ったので、俺も黙る。なるべくこちらからは、話しかけない。
『…あ、あのね、』
「なに?」
『…そっちはどう?』
 そっちってどっちだろう。ちょっと笑えた。
「変わりないよ。」
『元気してる?』
 死人に元気かって尋ねるの、おかしいと思う。
「…うん、元気。」
『天国ってなにしてるの?』
「またその質問?」
『またその質問。』
 ふふ、とがわらう。
 俺はなんとなく、狼少年のことを少し思い出した。俺は嘘つきの手伝いのために、こうして毎日嘘を作り続けているわけだけど、その少年はどんな嘘、つくのだろうか。明日にでも忍足に、詳しく狼少年とやらの話を聞いてみようかしらん。珈琲は2杯目で、少し舌が痺れてきた。もう真夜中で、みんな眠っている。だから声はしずかに。ひそりと続く。商店街の明かりはみんな消えたはずなのに、部屋の中より外の方が明るい。ぼんやり青く、光っている。俺のうちの窓からは、書房の窓、見ることはできない。
「こっちは僕くらいの子もたくさんいるから、」
 僕、というのがいつもなんとなくむずかゆい。
「さびしくないよ。今日も石蹴りして遊んだよ。」
『石?』
「雲でできたやつ。」
 ふふ、とが笑っている。笑っている。俺は黙ってカップにお湯を注いだ。3杯目。
「あとエスパーとも話した。」
『エスパー?』
 受話器の向こうで目を丸くしてるに違いない。今度は俺がふふ、と笑った。俺は時々、ほんとうにときどき、俺が今兄ちゃんで、天国にいて、と電話しているのだということを、忘れそうになる。そういうときも、たすけてくれるのは珈琲で、ひとくち飲むと、思い出す。俺はジロー隊員でニンムの真っ最中、だから今は俺は兄ちゃん。天国からに通信中。
「天国にはエスパーがいるんだ。気を抜くと思考を読まれてしまう。」
『そうなの?友達じゃないの?』
「友達だよ。」
 へんなの、ってが笑う。うん、へんだろ、俺、もうずいぶん変になってしまったんじゃないかってたまに心配になる。

「だから今日も元気だったよ。」
『ならよかった。』

 噫きっと受話器の向こうで君、すごく優しい顔、しているに違いないから。俺はなんにも言えないや。嘘しか言えない。困ったもんだ。窓の外を蛾が飛んでる。スクールゾーンのネオンは、もうずいぶん褪せている。