真夜中電話が鳴った。着信を知らせる青いランプが暗い部屋、きらきら光る。設定は非通知。不思議と惹かれるように通話のボタンを押した。不信感はまるでない。
「もしもし?」
『もしもー、し?』
ブ、とどこか、ノイズ混じりの遠い声。
「……もしもし?」
『?』
レースのカーテンの向こうで、街燈が一度、チカチカと瞬いた。
夜光虫が飛ぶ。外は静か。だって真夜中だもの。みんな眠っている。
「…………お兄ちゃん?」
囁く声音も、静かだった。
『うん、だろ、聞こえて る』
「お兄ちゃんからかけてくるの、初めて…」
『う ん。特別な、んだ。』
「え?ごめん、今日、なんか聞こえにくいね」
『うん、あ のな』
ひとことも聞き漏らすまいと思った。いつもそう思っているけれど、それでも穏やかな会話は眠りの世界の中にあって、ときどき話したことを忘れる。けれど今真夜中の真ん中にいて、の目は一生のうちで多分一番覚めていた。夜の真ん中で、目覚めている。そうして耳は、大事な言葉を聞き漏らすまいと、研ぎ澄まされている。
「…なに?」
『携帯の電源切れそうなんだ』
ちょっと予想外れの言葉だった。
「え?」
『電源、天国って、びっ、、くりだろ、コンセントな い んだ』
「………え?」
『だか、ら、きょ が最後』
「おに『お前、にいいこと教、え てやる、な』………」
遠い言葉。最後だと彼が言って、彼女のほうは少し黙った。受話器のむこうは相変わらずの電波不足で、ノイズが混じってよく聞こえない。けれども優しい、声音がよくわかる。砂嵐を抜けて、すんなりと入ってくる。間違えるはずがない、優しい人の声。いつも夕焼け色した部屋で、風に吹かれて微笑んでいた。
『あレが神さ、まなのか、兄 ちゃ、ん知らな、けど、』
変わらない。優しい優しい声だった。
『それに似たやつならほんとにいるんだよ』
「…………うん」
『一度だけ、いちどだけ電話かけてもいい、よってかみさまがそ、う言 ったから。電話、かけタんだ。電源、一発でダメになりやがるんだ』
「………一度だけ?」
『そ ウ。一度、だけ』
「……………」
『俺、嘘ついたよ。に。嘘、つかせたんだ、「…お兄ちゃん、」に。』
告げられようとした名前にの言葉が被さった。
『?』
「あのね、………覚えてる?商店街の向こう側のクリーニング屋さんの子。」
『…当たり前だろ。俺の親友だ、』
「その弟。」
『……当たり前。』
「そのジロくんね、お兄ちゃんが死んでからねぇ、ぱったり来ないの。たまにジロくんのお兄ちゃんに無理やり引っ張られて、お線香あげに来たけど、お兄ちゃんが大学行ってからなかなか来られなくなって、それからはさっぱり。」
『……うん』
「学校だって同じなのにね、全然話もしないの。クラスだって一緒になったりもしたのに、いつも寝てばっかりで、」
『うん』
「いつもね、眠そうに目ぇ、擦ってる。授業中なんてほとんど寝てて、テニスやりながらだって寝ちゃうくらい。」
は笑った。
「私が話しかけてもねぇ、眠そうに首振ったり頷いたり、ひとことふたこと返事するだけなの。」
しばらくふたりとも黙った。
受話器の向こうの砂嵐。
天国って遠いから、電波塔だってありゃしないのかもしれない。
「…私もずっと、嘘、つかせてる」
受話器の向こうで優しい嘘つきがわらった。もわらった。受話器のこちらがわで、真夜中に。
「私もうずいぶん長いこと、ジロくんと直接話してない」
砂嵐が、なにか言ってるようだ。さようならの、じかんだよ。
『…俺の分もありがとうって言ってくれる?』
なんだ、天国っていいところなのね、だってそんな風に、泣き出しそうに笑えるのなら。
「……だきついていい?」
『ちゅーはだめだからな』
ふたりは笑った。あの世とこの世で受話器を挟んで。
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