真夜中にベルが鳴った。非通知。兄ちゃんじゃないかという、くだらないとっさの妄想。

「もしもし、」

 ザーと遠くノイズ。もう何年も前の携帯だものな、いつ壊れてもおかしくない。
「もしもーし?」
 ブ、と世界のずれる音。

『…し、 し』

 知らない声。
「………だれ?」


『 俺、   窓 外、ジロ 見て、みな』


 切れた。
 不在着信を知らせるランプが光っている。今の電話の間に、がかけてきたらしい。兄ちゃんの電話が通話中で、きっとひどく驚いたろう。
 かけ直すべきなのか、少し迷った。こちらからかけたことは一度もなかった。

「窓………外?」
 見て、見な。
 そう言ったんだろうか。ずいぶん遠くて、砂漠の砂塵の向こうから、聞こえてくるような子供の声だった。俺よりわずか幼い――――幼い。
 窓ガラスに映った自分に俺は驚いてしまった。
 兄ちゃんより、大きくて、兄ちゃんより、背も高く、兄ちゃんより、年も大きく、兄ちゃんより、ああ、兄ちゃんよりも。
 叫び出しそうな静寂の中にベルが鳴った。面倒くさいから、音の設定も買った時のまま、無機質な電子音。

「………なんで、」
 登録されていないけれど、よく知っている番号。この携帯電話に、かけてくるはずのない、番号。
 携帯を扱う手先が震えた。
「…、」

 出てはいけない。出てはいけなかった。
 兄ちゃんの古い携帯電話は、俺の左手にまだ握られている。その携帯の着信履歴ぜんぶ、今俺の画面にでかでか表示される番号と同じものが埋め尽くしてる。どうして、どうして?
 はしつこかった。留守電設定していないから、ずいぶん長いこと携帯は鳴っていた。
 しかしそれでも、俺もしつこくじっとしていたら、イィンと電子的な余韻を残して、部屋は静まり返った。
 どうしてこっちの電話に、どうして、どうして、さっきの電話は、なんで、なん
 コツリ。

 窓ガラスが鳴った。外は夜で、壊れたネオンの青光、漏れている。なぜだかおそろしいようで、俺はちっともうごけなかった。呼吸だって、止まりそうな、そんな気分。
 なのにコツリ、コツリともう一度。
 ――――窓、外、見て、見な。
 ほとんどなにも考えてなかった。とりつかれたように夢中で、少し建て付けの悪い窓を開ける。
 すごいタイミングで、リリリリン、と着信音。左手の携帯。

 夜の中にがいた。
 壊れたネオンの下で、すこし緊張したように立って、それでも笑ってた。携帯電話を耳に当てている。
 着信を知らせる電子音は鳴り続けている。夜光虫が目の前を横切った。と目が合う。都合のいい夢かな、妄想かな、その目が出てくれと祈るように見えて、またなにも考えずとっさに携帯を耳に当てた。
 一瞬の静寂。

『…もしもし。』
 緊張している君の声。赤いマフラー越しに、少しくぐもって聞こえる。
「…………、」
 どうしても応えることができなくて、黙っていた。電話に出てしまった時点でバレバレだ。けれどそれでもまだどこかでしつこく、黙っていれば大丈夫じゃないかと、そんなわけないのに思っていた。

『もしもーし、』
 少し君は笑ったようだ。夜なのとネオンが壊れているのとでよく見えないけれど。
『もしもーし、ジロー隊員、聞こえますか?どうぞ?』
 君が知らないはずのごっこ遊び。は笑っている。笑っているけれど最後の響きが緊張で震えてた。いとしい。胸の辺りでつっかえてぐるぐると蟠っていた言葉がふいに溶けた。開いた口が寒くもないのにふるえる。
「もしもし?」
 少し語尾がひっくり返った。ださい。吐く息は白いのに身内は燃えてるみたいに熱かった。泣くかもしれないと、どこか遠くで考えた。
 ほっとしたように受話器の向こうで君が笑って、「参謀から伝言です」と言った。
 それを聞き終わる頃には俺は靴を履き終わっていた。シャッターをちょっとだけ持ち上げて走りでる。ジャケットもマフラーも忘れちゃった。けっこう寒い。ネオンの下にがいた。細い足。コートからひょろりとでている膝はタイツにくるまれていても寒そうだった。赤いマフラー。ああ、はかわいい。ずっと前から知っている。
 ねえ、君ひとりで歩いてきたのかい。いくらよく知る商店街の中だからって、一番隅っこから一番隅っこまで、歩いてきたの?知ってるよ、誰もいないシャッターの閉じたアーケードの下は、とても静かでこわいんだ。

 もうお互いの声が聞こえる距離なのに、は電話を離さなかった。俺も祈るような気分で、受話器を耳に当てっぱなしでいる。

「…ジロくんですね?」
 囁くような声だった。でもよく聞こえた。受話器と君の口から、同じ音が鳴る。
 しばらく黙ってうんと頷いた。
 がわらう。花の咲くみたいに。
 あっけにとられて、でも口は結んだままだった。どうして?ねえ、怒らないの悲しまないの呆れないの嫌いにならないの嫌いじゃないの失望しないの怒鳴らないの泣かないの?
 俺は嘘つきなのに。
 考えた途端また言葉が出なくなった。心臓が速い。首の裏だけ風が通るとヒヤリとつめたかった。呼吸が詰まる。言葉にならない。
 が携帯を耳に当てていた手をふと下ろした。携帯は繋がったまま。でももうの手のひらのそれはの声を拾わない。ぎゅっとそいつを握り締めて、白い頬では自分に言い聞かせるみたいに言った。
………ありがとうとごめんなさいを言わなくちゃ、
 ほんの小さな声だった。のほっぺが白いのは、本当に寒いからだけだろうか。止まりそうな呼吸のまま、どこか遠くで考えた。の言うことが、よくわからない。

「ジロくん、私ね、」
 今度はさっきより大きな声だ。俺に聞こえるように、発せられた言葉。が俺の名前を呼んだ。昔とおんなじ呼び方で、昔となんだか少しばかり、不思議に違う、響きをしてる。
「うん、」
「私ねえ、」
 なにか言おうとしたまま、が泣きそうな顔をした。
 多分胸の辺りに言葉がつっかえたときって、あんな顔になる。言いたいことがたくさんあって、たくさんたくさんありすぎるとき、ああいう顔になるんだと思う。
 そう考えながら、携帯を握ったまんま、白くなったの手のひらを見た。あんなに強ばるほど握りしめて、噫、もう、馬鹿だな、ぎゅっぎゅとほどいてやりたかったけど、俺の手のひらもズボンのポケットの中で同じぐらい握りしめられている。
 ああ俺はになんと言いたかったんだろう。謝りたかった?白状したかった?もうやめたかった?いつまでも続けていたかった?よくわからない。
 泣かないで。噫その通り。いつだって言いたかったのはこれだけだ。

「俺さあ、」

 困ったように眉を下げてたが、突然俺が大きな声、出したのできょとんと目を開けた。泣いちゃいけないよ、だって夜だからね。夜は眠らなくっちゃ。なみだ、ふかなくちゃね。だれかの声が心臓のあたりで聞こえたように思った。気のせいかもしれないけど。眠たく無さ過ぎて聞こえた幻聴かもしれないけどさ、兄ちゃんの声に、似てるように思ったよ。
「珈琲ブラックで飲めるよ。砂糖もミルクも入れないでガバガバ飲めるよ。嘘じゃないよ。」
 なにを言っているんだろう。言ってから恥ずかしくなった。なのに目をまん丸にしたまま、だんだんが眉を下げて微笑を浮かべるものだから、なんだか俺は、たまらなくますます恥ずかしくなった。はずかしい。
「…すごいね、」
 笑ったまんま、が肩を下ろす。
 そう、そうだよ、眠る前には楽しいお喋り。そしてなみだ拭いてね。と遠くの誰かさん。
「私はね、珈琲、にがくて、とてもだめなの。ミルクをたっぷり入れて、そこに砂糖もひとかけいれて、それでやっと飲めるの。珈琲ちょっとしか入ってないのに、目が冴えてしまうの。」
 うん、と相槌打ってから「俺も昔はそうだったよ、」と言うと「昔は?」とが返すので、俺は、
「昔は珈琲まっずくてだめだったんだけど、最近俺はまきしむにはまっています。」
 とちょっと胸を張って答えた。が笑う。
「おとなだー!」
「珈琲中毒なんだよ。」
 肩をすくめて少し笑うと、がまた泣きそうに笑った。「ジロくん、」ああそんな心細そうな声。だめだったら。
 またしばらくしんとした。が何か、言おうとしている。俺にはそれが、わかったので、じいっとじいっと待っていた。電話を待つのと同じような、せつないような静けさだ。珈琲飲める俺ですが、まだまだ子供なので、その沈黙をなんて言って表せばいいのか、よくわからないのだけれど。

「私ね、ジロくんとずっとこうやって話がしたかった。」

 電話越しじゃなく。ごめんね、ごめんね。ありがとう。そう話す声、まだ震えている。こわいのか、緊張しているのか、不安なのか、勇気がないのか、勇気りんりんだからなのか。俺にはわからない。そう、俺はまだまだ全然のこと知らなかった。考えてみて驚く。もうずいぶん長い付き合いなのに、俺たちはお互いの珈琲の趣向どころか、どんな音楽が好きだとか食べ物はなにが好きだとか、誰が好きでなにがしたくて何になりたくてどこへ行きたいのかとか、そんなことを一つも知らない。まだまだ話したりないのだ、だから俺にはよくわからない。おかしな話、俺たちはぜんぜんちっとも、七年間毎晩お喋りしていたにも関わらず、"慈郎"と""として会話したことは合計して5分だってなかった。

「そういえば伝言は?」
 ふいに黙っているのが耐えられなくて、尋ねる声はほとんど掠れた。
「…ちゅーはだめだからな、だそうです。」
 がマフラーに口を隠して肩を竦めた。
 ちょっと笑ったようだった。