実家に帰れば、なに、なにも楽しいことはない。田舎で、そして、飯がうまく、偶に帰ってもやはり小言とは煩わしいものである。その程度であった。
 長い休暇に2、3日。仁王はそこへ帰る。どんなに忙しくとも夏の大会の前であっても正月も放って、盆だけは必ず帰った。帰らなければ、ならなかった。
 帰ってみれば変わりはなにもなく、変わりないかと訪ねる母親の目尻のしわすら変わらなかった。変わらんよ、なーんにも。と答えると彼女は嬉しそうに、そうそれはなりよりたい、と言って笑った。変わらない。
 親戚が会する宴会の席で、町のはずれのお稲荷の沼に、毎夜毎夜、狐火が燃えるという噂を聞いた。
「わしもうほんっとビックリして、魂消されんじゃろこれって死ぬ気で逃げて来たんよ!」
 母方の叔父だったか父方のだったかがそう笑いを取って宴会は締めくくられ、真夜中は静か。
「ねえ。ねえ、雅治くん。」
 呼ばうのはどういう繋がりともおぼつかぬどこそこの親戚の娘である。しかしやはり血は遠いとはいえ髪の色は同じであった。娘は名前を、なんと言ったか。小さい時分に遊んだような気もするが、どうにも思い出せない。
 今日も宴会の隅のほうに、にこにこ静かに座っていたっけな。そこまで考えたところで、彼女が口を動かした。そのくちびるに目がいってしまうのは、豆電球の赤暗い明かりのためなのであり、彼がけしてそんなやましい気持ちを一瞬抱いたわけではないのだということにしておく。
「雅治くん、狐火見に行かん?」
 そう言って形の良い口端を持ち上げた娘の目元はやはり親戚だ。母に似ている。
 のろのろと目をこすり眠たいのだが仕方がないというポオズを取りながら仁王は起き上がり、行こうと言ってニヤリと笑った。
 祖父の家の自転車は古く、半分埋もれていた。やっとのことで納屋から引っ張り出すと、空は真っ青な夜色で、幾つも星が出ている。
 しばらくふたりは並んで歩いた。年下の親戚の子のわがままに、しかし夜道は危ないので付き合ってやる、というふりをしながら、彼は歩いているのである。しかしそれにしても美しい子供だと彼は実はこっそり感心してその頭一つ分はゆうに低い背を見下ろしている。
「狐火でるじゃろか。」
「さあ。」
 娘を自転車の後ろに乗せて彼は自転車を漕いだ。道は悪くてガタガタしている。自転車もふるいのでキイキイ軋んだ。
 ふたりは暫く無言であった。結局娘の方は、雅治くん、と彼の名前を知っているのに彼はいまだに思い出せず、なぜか一つ年が下なのだということだけはっきりと確信している。
 電信柱はまばらになり、ついにはなくなった。辺りは暗く虫の声だけがする。ギイギイ自転車が歯軋りをする。
「見えた!」
 耳元で小さく興奮気味に囁かれた。沼がチラリと、光るのが見えたのだ。肩におかれた手のひらのしっとりとした重みがどうにも最初からなやましい。
 ほんとうじゃ、と答えながら彼は少し悶々としていた。肩におかれた白い指先の細くまるい形。噫。夜の沼は真っ黒にぬらぬら静まり返っていて、底知れず恐ろしかった。
 自転車を降りる。沼の周りは草が生い茂っていて、自転車を止めた林の背中に、古びたお稲荷の神社が見える。明かりもなく、暗い水を湛えた沼から吹き込む風が少し冷たい。
「狐火、おらんね。」
「おらんのぅ。」
 静かだ。とてもとても静か。
 あんまり残念そうなので、彼はその頭に手を乗せてやる。
「なぁに、おじさんのことじゃ。さっきみたいに酒の飲みすぎで寝ぼけとったんじゃろ。」
 そして娘の白く透き通った顔を見る。ふふ、と笑ったその顔。
 それを見た途端に、頭が真っ白になった。彼女は氷のように静かだ。しかしその眼差しは、カッカと燃えるように彼には感じられた。美しい顔、清らかな微笑だ。しかし見つめれば見つめるほどに、怪しいなにかが、その顔に漂っているような気がしてくるのだ。なんと言えばいいのだろうか、その顔はやはり清く透き通るようにも見えたし、目の前に広がる沼のように、妖しくぬらめいているようにも見えたのだ。
「雅治くん、」
 と彼女が呼んだ。
 なにか魔力に、引き寄せられるようだったと思う。仁王は娘の肩に触れた。その控えめな、意味ありげな甘えるような微笑を、見た。
 何をしているか分からないまま、彼は娘の額にくちづける。次は目、頬、くちびる。すべてが悪い夢のようだ。そして天国のよう。沼は静かに、黒々としている。噫狐火なぞどこにも見えないじゃないか!笑い出したい気分がする。そして次の瞬間にはその浅ましさに叫び出したくなるのだ。
 娘は静かだ。じっと黙っている。しかし微笑している。
 そうして口づけを肩に落とす瞬間、彼は思い出す。。そうだ。娘の名。雷のように、轟き渡る。
 死んでしまった妹の名に違いなかった。
 そのためだけに彼はいつもここに帰る。その子のためだけ。あの小さな墓石のために。
(噫。)
「…なんで出てきたんじゃ、」
 が冷然とした微笑を浮かべる。退屈している、ねえ遊ぼう遊ぼう、遊ぼう、遊ぼう…。
 ヒヤリと吹き抜けた夏風のその後に、暗い池のほとりに佇むのは彼ひとり。ひとり。
 ひとり。


(幽ヶ沼/20080826)