「あ、」
 帰り道だ。夕焼けも終わって、空が不思議な青とすみれ色に明るい。冬の夜が来る。紺色の膝が冷たい。タイツをもう一枚重ねようかな、足が太くなるかしら。はそんなことを考えている。マフラーは青い。夜明け前の空の色?いいえ、夜の降りる直前の色。今この瞬間の色。吐く息は白く夜に昇る。ゆらゆら昇って、たぶんそのうち渦巻いて、ちっさな星になるんだろう。
 突然立ち止まって、あ、と呟いたを、雅治は少し歩いてから振り返った。
「どうした?」
 はじっと、道の先を見ている。いつもの帰り道。風が冷たい。雅治は大きなテニスバッグを背負っている。履き潰したローファーの踵。腰履きのズボン。ベージュのマフラーの格子模様。寒がりの彼は鼻までマフラーにすっぽりと顔を埋めている。低い声が心地よくこもって真夜中の内緒話みたい。独特の訛りはどうしてか冬が似合う。
「あ、あのね、」
 その独特の感覚をなんと言葉にすればいいかは迷った。迷って、少し口を閉ざし、目玉を右から左へ、ゆっくりと巡らせる。雅治はその間、静かに立ち止まって彼女を見ていた。
「なんかこの景色見たことあるなあ、って、思った。」
「…なんじゃあ、それ。」
 少しあどけなく目をきょとりとさせて、雅治が笑った。毎日見とるじゃろうが。口端を上げると八重歯がこぼれる。そういうことじゃないんだよ、と続けながらは小走りに雅治の隣まで歩いた。彼もそれに合わせてゆっくりと歩き出す。ポケットにつっこんだままの手。
「違うの。えっと、つまり、今さっきさ、星出てた。あれ!青い空に、あの星があって、ちょうど下のほうがきれいなクリーム色で、温度も、空気もこんな風に、そっくりこのままひんやりしてて、仁王が今みたく歩いてるの。そっくりそのまま。見たことあるよ。」
「そりゃそうじゃろ?中学ん時からほとんど毎日一緒に帰っとるからのぉ。」
「そうじゃなくて!」
 うまく言葉にならないのはもどかしい。なにかこういう感覚を、表す言葉があったように思うのだけれどこういう時に限って咄嗟にうまく浮かばない。これだから人間は不便だ。イルカになりたい、テレパシー使えるから。このままこの不思議な、ぷかぷか海月のよう、夜空に浮かぶ星のよう、その感覚を伝えられたらよいのになとは少し考える。空はだんだん、藍を深めて暗くなる。星がひとつ、ふたつ、みっつ。輝きだしたよ。オリオンのベルトの真ん中、少し右より。M42星雲は肉眼では見受けられない。噫あのあたりの星の生物ならテレパシー使えるだろうか。
「毎日同じような景色見てるけど、今日のさっきの瞬間はさっきだけでしょ?ほんとに私、見たことある気がしたんだよ。さっきの瞬間。仁王の髪の揺れ方とか、ぜんぶ。」
 雅治はまた立ち止まると、目をぱちくりさせてを見た。そうやって目を大きく開くと、彼はずいぶん幼く見える。マフラーから首を出して、目を大きくしてを見てると彼は、なんだかキツネが外の様子伺って巣穴からきょろきょろ顔出したみたいだ。この間見た、子ギツネの映画、思い出しては少し微笑む。もちろん目の前にいるのは、あんな子ギツネなんてふくふくしたかわいいもんじゃないけれど。
 雅治がやっぱりその件の動物を思い出させる動作で首を傾げた。後ろで束ねた髪がヒラリ、しっぽみたいだ。
「…デジャヴってやつのことかの?」
「それ!そ!れ!」
 が両手を挙げて笑った。
 ああやっぱり人間でよかったなあ。伝えたいことが伝わった時、とてもうれしいもの。
 また歩き出しながら、雅治は今度は亀みたい。またマフラーに鼻まで埋めてしまった。白い頬に対して鼻の先が赤い。うー、と呻いた隙間から白い息が出た。ゆらゆら昇る。ほらまた星がひとつ出来上がるよ。町の明かりが付き始めた。ジジ、と唸って電信柱の電気が光る。
「最初っからそう言えばよか。」
「咄嗟に!でなかったの!デジャヴってのが!」
 まぁたのど忘れか、と言って雅治が笑う。ひどいなあと言っても笑った。プロキオンとシリウス、少しはなれたところでお互い呼ぶみたく青く光ってる。月は三日月、少し笑った口の形。
「なんかねーほんとに見たことないはずなのに見たことあるのとそっくり同じでね!不思議な気分になっちゃった、それで立ち止まったの。」
「そうか。」
 少し前を歩きながら雅治が頷く。白い髪。しっぽが、いいや髪がゆらゆら揺れる。眺めて歩きながらは言葉を続けてる。彼は時折笑いながら頷いた。
「よかったのう俺と一緒におって。」
「え?」
 唐突だった。新しい靴の爪先見ながら歩いてたが顔を上げると雅治が少しマフラーから顔を上げてニヤリと笑ってた。ニヤニヤ、それはなんだか得意げにも見える、少し悪戯っぽい笑い方。
「デジャヴって日本語で言えば正夢みたいなもんじゃろ。そういう時はな、ひとりでおるとそのまんま夢の世界に引きずりこまれるんじゃ。」
「え!ええ、えええ!」
「…嘘、」
「えええええ!」
「…じゃないかもしれん。」
「どっち!」
 口をひよこみたいに尖らせて雅治は口笛吹いた。さて、どっちでしょう。少し顔を近づけて笑った彼の後ろに、キツネが見えた。確実に見えた。遊ばれている。
「ちょ、ほんとどっちいいいいいいい…!私そういう時ほんと多いんだから止めてよほんともうやめてよあー怖い怖い怖い!」
 今度こそ雅治は声を立てて笑った。愉快そうな白い息。あれだけ空に昇れば多分星雲ひとつくらい出来上がる。恨みがましく見やったらまた首を竦めて目を細めてニヤと笑われた。敵わんなあ。チラリと視界の下で白が揺れて、が視線を落とすとリレーのバトンタッチみたいに雅治のその手が片方ポケットから出ておいでおいでしている。
 きょとんとして見下ろしたらもう一度、早くバトンを渡してよ、からかうみたいに手が揺れる。
「安心しんしゃい。そういう時は見ててやるから。」
 おいでおいで、誘い水はあまいのだ。そうと昔っから決まっている。ありがとう言うのは悔しい。だからは頷くだけに留めておく。どうぞこのまま、星ひとつ生まれてから死ぬまで。
「…うん。」




(生まれてから死ぬまで/20081204)









(お誕生日おめでとうございます!誕生日っぽい話じゃなくてごめんなさい!
すき!千歳と日吉の次くらいに!笑)