ここは空の上、ここは海の庭。
 夏の家で、ふたつの言葉が転がった。木でつくられた階段を登る。真っ青なガラス玉、転がる。幾重にも重なったベルは、波音と溶けて広がる。
 なにから話そう。
 わかることはひとつもなくて、なんの予想もつきはしない。
 犬が砂浜を歩く時から、足元にじゃれついて、楽しそうに彼を見上げる。あの子のとこ、いくんでしょう?あそこはとってもごはんがおいしいね、今日はスズキのムニエルがいいな。ねえ、シャボン玉飛ばしながら歩こう。
 わかったわかったと口笛吹きながらここまで歩いてきた。家の鍵はまた閉め忘れたけど、まあいいや。変わらない道。蜜柑の花が咲いている。
 ほんとは犬を飼いたかった。けれど引っ越しばかりで、一軒家に落ち着くということが中学に上がるまでなくて、上がってからは部活に忙しくて飼えなかった。だから塔で犬を飼った。だれにも見えない、彼だけの犬。
 石の塔は今日もいい天気。快晴だ。真っ青な海と、真っ青な空、それから白い砂浜とシャボン玉。花がわらう。その隣では、重たい表紙の本が風にめくられて、白いページが飛んでいった。飛んでったってかまわない。どうせ白紙だ。
 だってここは、彼のお城、小さな石の塔。
 昔のことだって、覚えちゃいられない、そんな脳みその作った世界です。
 でも気に入ってるんでしょう?と花が笑った。私、ずいぶんここにいたわね。あなた、毎日お水をくれたもの。
 ここはいいところね。

「いらっしゃいま…あ、」

 あ、ってなんじゃ。あ、って。なんとなくふりだしのデジャビュ。店員、しっかりせえよ。
 ちょっと肩をすくめてニヤリとすると、がにっこり、笑ったところだった。細くて白い首。今日も黒いエプロンをして、小さな丸い銀のピアス。
「におくん!」
 いらっしゃい。そう言いなおしてまた笑う。
「まだこっちにおったんじゃねー!」
 おう、と言いながら席に着く。三度目の指定席。窓際。一番ガラス球がよく見えるところ。思えば一番最初から、クマの店主はその席に彼を導いたのである。ひょっとして最初から、気づかれていたのだろうか。
 首をめぐらせるが、キッチンにでもいるのだろうか、姿が見受けられない。がメニューを持ってきた。
「これから帰るんじゃ。」
 そうかあ、とが笑う。
「長くお休みとれたんやねぇ。一週間?」
「…と2日。」
 ピースをつくって2をあらわすと、おお、と感嘆の声がかえる。
 水はまだか、店員。
「有給相当貯めとったけのぅ。」
 カランと涼しい音をたてて、コップの水が置かれる。ガラスの表面は汗をかいて、いかにもつめたく冷えている。
「ご注文は?」
「…この前と同じの。」
「今日のムニエルさん!」
 だから恥ずかしい。は笑うと、キッチンに向かって
「今日のムニエルさん大盛りー!」と叫んだ。大盛り、に目を丸くする彼に、
「帰るんじゃろ?」
 と笑った。あいかわらずである。
「そりゃあどうも。」
 真っ青なガラス球が、窓の外で同じように笑う。
 空の青と、海の青と、そうだ、それから思い出の青だね。それから今朝見た夢の青、夜明けの青。この世のすべてうつくしいブルー。
 思い出した。忘れてたんだ。ぜんぶもらって帰るにはおしい。ここにあるのが、ガラス球にはふさわしい。だから一個だけ、もらってかえろうと思うのだ。荷物は少なく、十分ガラス球は収まった。親戚にもらったタオルと梱包材で、ぐるぐる巻きにしたから、きっと割れたりなんてしないだろう。

「お待たせしました。」
 が湯気の立ったプレートを運んでくる。そう言えば聞き忘れた。
「…今日の魚は?」
「スズキです。」
 犬がほらねほらね!とうれしそうにしっぽを振った。思ったより、石の塔は現実に馴染んでいる。青い光も笑う。ガラス球。

「ありがとうな、」

「ん?」
「あれ。」
 ああ、とが笑って、「おじさんが持ってけ言うたとよ。」と言う。やっぱり最初からばれていたらしい。キッチンから出てきたクマの店主が、眉を片方あげて笑った。「特盛りにしといた。」
 そう言われて目の前の皿に目を落とすと、なるほど、確かに大盛り以上に、相当、多い。
「食いきれるか?これ…、」
「がんばれにおくん!」
 無責任な応援だ、そのくせとても、明るい笑顔。このままでは悔しいので、帰りに携帯のアドレスを聞いてやろうと彼は考える。にやり。そう言えばあの少年は、今日は見当たらない。まったく平日に子供が働いていて、休日にいないとはどういうことだ。
 ガラス球の光と影につられて、彼は席に座って特盛りのプレートを前にしたまま、は銀のお盆を胸の前で抱えたまんま、二人とも少し窓の外を見た。
 夏の光。変わらない真っ青と、それから白と。
 昔々と変わらない、きれいなった女の子。それから嘘吐きのまんま、昔々のこと、ちょっと思い出した彼と。おんなじものを眺めて、また笑えたのって、考えればとても、すてきなことだね。
 これって誰の言葉?なんだかとても、照れくさくって。私ですよ、と小さな声。石の塔の一番下の、小さな小さな石ころひとつ。
「…あ、」
 ふいにが笑った。
「船。」
 水平線を、舟が泳いでゆく。
 また来てねと夏の家。どうかのう、と嘯く石の塔。
 またくるよ。犬もずいぶん、ムニエル、気に入ったみたいだし。