(泣き虫)
 なんでこんなことになったのかよくわからない。よくわからないけれどとりあえず逆らわない方がいいことはわかるので、謙也はじっと座っていた。どうしてこうなったのかしらと首を捻るもよくわからない。おかしいな、の部屋に遊びに来ただけのはずなのだけれど。チャイムを押して、扉が空いて、の顔。いきなり眉が吊り上っていた。そうして開口一番、「謙也くん、ちょっとこっち来なさい。」謙ちゃん、ではなくて謙也くん呼び。ご立腹。
 おかしいな。ちょこんとなぜだか正座した謙也の前にはが謙也よりもっとずっとちょこんという言葉がぴったり、正座している。
 何か悪いことしたかな、と思い返しながら、謙也はの膝の上で握られた小さなこぶしを見ていた。あいにく思い当たる節はなくて、遊びに行く約束をしたときも、別段は変わらなかった。
「…謙也くん、」
「はい。」
 呼ばれたので返事をしてみる。するとは、むんと口をへの字に曲げた。泣きそうなのかもしれない。そのことに思い当たって、謙也は少し慌てる。いつだって泣かせるつもりなんてひとつもないのに。慌てて膝を立てかけた謙也に、「そのまま。」とやはり泣きそうな声がした。
 それに半分立ち上がりかけたまま、謙也は止まる。の口はへの字のままだ。しばらくそれを眺めて、彼はそおっと、泣き出しそうに違いないを刺激しないように首を傾げてみる。
「どないしたん?」
 泣きそうやで、とは言わなかった。言えばきっと涙の引き金になるから。だからなるべく、背中を撫でるような響きを選んだ。
 必要以上に動かないようにしながら、その目はの手のひらが、白くこわばるのを見ている。
「なんで謙也くんは、」
「うん。」
「なんで謙也くんは、」
「うん?」
 またへの字になった。口端が少し戦慄いて、泣くかなと思ったら泣かなかった。
「おかしい。」
 断定された。
「そうか?」
「おかしいわ。だっておかしいやん、なんで、」
 おかしいと三回も言われて、流石に少し傷つく、というのは嘘。ズビ、と小さく鼻をすする音。そのままと言われたけどそろそろこの体勢も限界なので、謙也は立ち上がってその勢いのまんまをぎゅっとだきこんでみた。
 文句は言われない。
「…中学の夏大ん時も、」
「うん?」
「高校の大会ん時も、」
「うん。」
「今んなっても、」
 うん、と頷きながらの声を聞く。おせっかいは誰だろう。部屋の隅っこに転がっているの携帯電話。浮かぶ顔がどれもこれも本気で心配している顔ばっかりだので、文句が言えなくて困るな。
 苦笑した謙也の耳に、自分の胸を通して聞こえる声は、遠くくぐもっている。優しい。優しい。頭の天辺にほっぺたをくっつけてみる。ああ、やさしい。
「…………人んことばっかで、アホとちがうか。」
 目をきょとりとさせて見下ろしたら、赤い顔がぐいぐい左胸のあたりに押しつけられたところだったので、ああ今日はとりあえずこの小さな生き物に思い切り優しくしようと、彼はそう思った。





(20090828)