| 彼には最近、悩みがある。 部活の悩みでもなければ、家族の悩みでもなく、かすかに彼自身期待していたりもするロマンチックな悩みでもない。 『おい、聞いてんのかコラ。』 なあんでこないなことになったんやろ。そう考えていた思考を、偉そうな声が現実に引き戻す。彼は慌てて、首を二、三度横に振る。危うく思考がトリップするところだった。正直トリップしたいのが本音だけれど、そうもいかない世の中がせちがらい。 「…はいはい、聞いとります。」 返事を返しながら、彼は手に持った紙コップを一度パコリとへこませた。このまま握りつぶしてしまえないのが、自分の悪い癖だと彼は自分でも思う。 『なら、いいんだ。』 彼の電話は、少しばかり通話がしにくい。受話器と通話口が同じだものだから、喋り終わったらすぐに、耳元へコップを持っていかねばならない。彼の電話は普通の電話と少し違う。なんだか昔懐かしい、紙コップの糸電話。場所は屋上、人気はない。そうして、さらにその糸電話に糸はない。 しかしそれでも、その紙コップは遥かどこかからの音を拾い、彼の声をその、遥かどこそこへ届ける。 声の主はずいぶんえらそうな喋り方。おまけになんとなく、やる気のないけだるげな雰囲気。電話をかけながら、きっと肘でもついているか、椅子の背もたれに、ふんぞり返っているに違いない。 『それでだな、その辺にたぶんガブリエッラがいるはずなんだ。あいつときたら三千年前からサボり癖が抜けない!さっさと帰ってこいと伝えろ少年!』 ガブリエッラ。何人だ。 彼は半分諦めたような怪訝な目をして、念のために確認を取る。 「……ガブリエッラさんとは。」 『平たく有体に言えば天使。』 答えを最後まで聞き終わる前に、彼は天を仰いで自らの境遇を呪った。 もういやや、俺が何したん! 思わず顔を覆って呻いた彼に、紙コップの向こうの誰かさんはもちろん容赦ない。『聞いてんのかオラオラ。』それにしてもずいぶんガラが悪い。心のままに彼は叫ぶ。 「もういや!俺が何したって言うん!」 『電話。』 すかさず帰った返事に言葉もない。 「電話したんのどこが悪いん!」 『悪かあねえよ?ただなァ、普段つうか普通だったら絶対繋がらない回線が通信部のウッカリミスで繋がっちまった上にそもそも管轄が違う、みたいな?その電話に出てしまった俺?しかしお前の伝言聞いたからには届けてやらねえとなあとめずらしくやる気を出した俺のまさに鬼神の如き働き?その結果のひとつのハッピーエンド?的な?時間外労働しちゃった俺?ウワ、すげええらい!すごいいい人!いい人だよなあ!お前の友達よかったよなあ!なあ!?俺のおかげ!?的な?俺がめずらしく!仕事が忙しいなか!それでもやる気になって!伝言してやったお・か・げ・で!』 「…カンシャシテオリマス。」 棒読みである。 『せっかく繋がった回線を無駄に遊ばせておくことはねえよなあ?おまけにキミは俺に大変な恩義があるわけだ。へっへ、しばらく働いてもらうぜえ、アッシ…オッシーくん?』 アッシーと言おうとしたな。 つっこもうにももはや気力がない。がっくりと肩を落とした彼の耳に、『へっへ、』となお悪役じみた笑いが届く。『へ…あ、デケエ耳クソ取れたわ。ラッキー。』こいつほんまに天国側の人材か。悪魔に近いような気がするのは、彼の気のせいではあるまい。 この奇妙な糸のない糸電話は、いったいどうしたことなのか。 彼の電話は、たぶんおそらく"天国"あるいは"天界"と世間一般に人が言うところにつながっている。 なにがどうしてそうなったかというと、先ほど電話の相手がおっしゃったとおり、「ウッカリミス」だそうだ。 そもそもその天国とかいうところは、人が思うほどの桃源郷でもなければ長閑で静かで浮世離れした、光に溢れた平穏な世界―――というわけでもないらしい。 死んだ魂は、宗教思想関係なしに、やっぱり天へ昇るのだそうだ。それでふたたび生ずるまで、天で暮らす、そうなのだが。もちろんその魂の世話をしたり、魂が天へ昇ってくるのを手助けしたり、生ずる魂の流れを管理したり、という存在がいるらしい。しかもちゃんと生前の宗教思想も考慮して様々な対応をしてくれる―――らしい。ニーズが多様化した昨今、天界であってもサービス業である以上はその要望には細かなところまで洩らすことなく的確にお答えしなければ、という運営方針、らしい。 どうにも胡散臭い上に、すべて伝聞なのはしかたのないこと。神様も仏様もアッラー様も、みんな同僚で、一緒に働いているそうな。なあんて言われても、ピンと来るはずがない。 そんな天界の事情を彼に教えてくださったのは、もちろん電話の相手であるのだが、その相手はなんとなんと、その天国の"オペレーター"、だそうだ。主な仕事は天界と下界―――つまり彼のいる生者の世界―――との通信役。それぞれのボスの元、さまざまな仕事を担って天界から下界に降りるものたちがいる。その者たちに指令を伝えたり、あるいは業務違反がないか確認したり、サポートしたり、というのが仕事らしい。 本人いわく、『めちゃくちゃ忙しい。』でもって『めちゃくちゃ神経使うしぶっちゃけ超ダリい。』。 声を聞く限りガラの悪いおっさんで、名前を"カルラ"さんと言う。 ウッカリミスで天界につながってしまった紙コップ。そのおかげで、確かに彼の友人は助かった。助かった上に、なんだか幼馴染のかわいい女の子といいかんじ。 なんやそれ! 彼がちょっとばかり、涙目になるのも仕方がない。 回線がつながってからというもの、助手と言えば聞こえはいいが、彼はすっかり、カルラさんのアッシーくん、もといパシリと化していたのである。 最初に『ちょっとバイトしねえか。天界の助手ってやつだ。』と言われて頷いたのが悪かった。その時彼の頭に浮かんだのは、人差し指の先から青い光の弾丸をブチかますアンバランスなキスを交わして愛に近づけよほほ笑みのBAKUDAN、な漫画の主人公だったのだけれど、蓋を開ければただのパシリ。その上バイトと言っても報酬は『非常に貴重な非日常的体験』。馬鹿にしとんのか。 「そもそもそのガブリエッラさんかてどうやって探せ言うん!?」 『馬鹿野郎、その立派な頭は飾りか!テメエで考えろ…あ、梵天さんマジお疲れさんっす!今日は今からご出張でs』 切れた。 というか切られた。 糸電話なのに!糸ついてへんけど! 紙コップを思わず屋上の床にたたきつけた。軽い音。からからと風に吹かれて転がって、なんとなく、空しい。もう知らないぞ、という意思表示。 しかしやがて、思い直してのろのろと彼は紙コップを拾い上げた。非常に貴重な非日常的体験。 「…馬鹿にしとんのか。」 それでもやっぱり、それは非常に、非日常的で、退屈な青少年には、捨てがたい魅力が『あ、そうそう。サボったらテメエ死後覚えとけよ。』ある、ということにしておかないと彼が泣きそうなだけ、かもしれない。 |