夕暮れで空が白い。
私はこのまま歩いて帰ってもいいと思い、同時にわざと電車を乗り過ごしていつまでも本を読んでいても良いと、思った。
ページの続きは気にはならなかった。ただいつまでも、文字を追っていたかったし、どこまでも歩いていけそうな気がしていたのだけれど、実際はおろしたてのローファーのかかとが痛くてもうあと少しも歩けそうにない。
構内へ続く階段を下る。人影は見事に見当たらず、ただ私のかかとが硬い地面を叩く音だけこだまする。人のいない改札。定期を通し、そのままゆっくりと地下へ潜った。広告の明かりが、小さく焦げるように揺れている。静かだった。音もなく滑り込んでくる電車。浜辺へ滑り込んでくるオルカを連想する。とても静かなフォーム。
目蓋を一度閉じる。開く。瞬きをする。電車がドアを開ける。不思議なのに、当たり前のこと。
電車に乗る。少し肌寒い。
真っ暗な窓の外には青い魚が見えた。時期に電車は地上へと出る。潜っていた魚の息継ぎ。橙と茜色の夕陽。なぜだか時間が、ゆったりと流れている。夕焼け色をしたシートに腰をかけると透明な水の中に全身を浸すような心地がした。やわらかい水底に軟着陸する鯨を想像する。
制服と同じ色をした鞄から本を取り出して、銀の栞を開く。赤い表紙の本。もう幾度となく読んだ。だから内容も、好きなシーンもみんな覚えてる。ただ単に、文字に耽るためだけに持ち歩いている。
ページ、めくらずともわかる。(でもジジがなんといってもいちばん楽しみにしていたのは、ほかのひとがだれもいないときに、小さなモモひとりに話を聞かせることでした。)文字をなぞって、少し微笑ましくなる。
最後の夕陽が一筋右目にまぶしく、ふと目を上げると、男の子と目があった。うっすら細められた目が、笑ったように見えた。不思議な微笑。涅槃という言葉が浮かぶ。アルカイックスマイルというのだろうか、不思議な心地がした。
少しびっくりして目を落とした。
西日がきつくて、振動し続ける床に影がくっきりと落ちてる。切り絵模様に似ているな、そう考える。
もう一度男の子に目を戻すと、彼もまた腕を組み直して窓の外を見ていた。ぴんと伸びた背筋。テニスのバッグを背負っている。
文字に目を落とす。銀の小鳥、月桂樹の栞。本を閉じる。
窓の外を見る。少しその男の子の西日に晒された横顔を見る。彼もこの物語を知っているだろうか。亀の甲羅に浮かぶ言葉を、知っているだろうか。ふふふ、と少し、笑う。
このまま電車にずっと乗っていてもいい、あるいは夕焼けの中このまま歩いて帰ってもいい。少し赤くなったかかとでそう思う。窓の外で魚がくるりと一回転して消えた。
(夕泳する魚の歌/20080629)
(本文引用:ミヒャエル・エンデ『モモ』より)
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