見舞いに訪れた先が留守だった。
ドアを開けた病室はガランとしており、開け放たれた窓から入り込む風がカーテンを大きく膨らませている。差し込む光は真っ白。バタバタとカーテンが鳴る。
その閑散とした景色にゾッとして、しばらくドアを開けた姿勢のまま立ち尽くしていたことに気がついた。
病室の机の上には、ノートがおかれており、風で転がったんだろう、床にシャープペンシルが転がっている。
拾おうかと少し悩み、机に置かれたノートが学校で使うような薄っぺらなものではなく、皮の表紙をした立派な作りの分厚いものであることと、そのページがやはり風でほろほろとほどけてしまっていることに躊躇いを覚えて彼は扉をしめた。
悪い幻を見たような気分がしていた。
空っぽの病室。残されたノート。真っ白な光、透明な花瓶の落とす陰影の調子。
足元が落ち込むような、心臓を冷たい手が撫でていったような、そんな気分。
少し迷って辺りを見回すと、ベンチがあった。あそこに座って待とう、と考える。特に見舞いに来るとは伝えなかったし、外出しているだけだろう。深く座って息をつくと、薬臭い病院独特の匂いがした。
カサリと乾いた音がして、花を包んだ新聞紙が鳴る。見舞いに行くのだというのを聞きつけた後輩が、慌てて持ってきたのだった。赤と橙のかわいらしい花だ。花壇に咲いているのを見かけた。赤也のやつ今頃園芸部の部長にとっつかまってはいないだろうか、クラスメイトの怒る顔と情けない後輩の顔が浮かんで、彼はやっと少し気をぬいて微笑んだ。
「あ、ポピー、」
控え目な声がした。
声のした方に顔を上げると、透き通るような顔色をした女の子が幸村とちょうど向かいの病室から覗いていた。
髪を緩くひとつの三つ編みにして、肩から垂らしている。
淡い淡い白群のパジャマの上に、クリーム色のカーディガン。茶色い目玉がくりくりしていて、笑うとふわりと音がしそうだった。
その手には重たそうな本を抱えている。年の頃は同じくらいだろうか。
「幸村くんの、お見舞いですか?」
ドアを閉めながら、彼女が少しほほえみ、部屋にいませんか?と尋ねた。なぜわかったのだろうと驚いた彼はそれを顔には出さずに、ああ、と頷く。
「じゃあ、多分検査に行ってます。」
囁くような小さな声だったがなぜだかよく聞こえた。
そこでやっと、廊下の突き当たりの幸村の部屋に対して、彼女が向かいの住人で、その隣の自販機などの置かれた広いスペースのベンチに腰掛けている自分、ベンチは2脚あり、彼女たちの部屋に近いほうに座っている――その状況から考えて、自分が彼女と面識がない以上、幸村の関係者にしか見えないだろうということに思い当たる。
ありがとう、と言いながらその子の方を見ると彼女は、いいえ、とはにかむところだった。
「私も幸村くんに用があったので…。」
少し沈黙が降りる。自販機の低く唸る音が、どっしりと心地よく聞こえる。
「ポピー、」
ややあって彼は口を開いた。
彼女がキョトンとして首を傾げる。
「ポピー、と言うんだな。」
それににっこりとうなずいて、彼女は彼の方へ歩みを進めた。小さな足だ。華奢な体にやはりその本は重そうだった。
「重くないか?」
自然にするりと言葉がでて、やはり顔には出さず彼は少し慌てる。それに彼女はキョトンとして笑って、「少し」と言った。
「この本幸村くんに貸す約束してんです。もう検査終わったかな、と思ったんだけど…まだだったみたいですね。」
頷きながら柄にもなくホッとしている自分がいた。検査。無人の病室に、思ったよりもショックを受けていたらしい。
柄にもないな、と苦笑して、彼はベンチを横へ詰めた。
どうぞ、と口には出さず彼女の方へ目をやると、少し困ったような驚いたような楽しそうな、そんな顔をしていた。やがておずおずと浅く腰をかける。重さがないようだ、と淡々と彼は思った。
本のタイトルを見ると、秘密の花園と書かれていた。花園。幸村が好きそうだと少し笑う。どんな話だったか―――少し考えて、ああ、と息が詰まるような気分がした。(ああ、)自分より少し低いところにある頭を見下ろす。柔らかい優しい色をした髪。
「幸村くんせっかく友達が来てくれたのに遅いですね、」
と困ったように足を少しプラプラさせる。細いかかと。
(ああ。)
花園の話。ばらの咲く庭。入り口のない花園。天使のあるく楽園。死んだ母親が残した庭。傷ついた子供と病気の子供が癒された庭だ。
妙にいたたまれない気持ちがした。幸村と同じ病棟にいるこの子。きっと同じくらい病状は重いのだろう。
そんな子供たちがこの本を読むのか。
切ないような、胸がもげるような心地がして、彼は話題を繋げる。
「いや、くるとは言っていなくて――毎週来ることにはなっているんだが、学校で急なプリントが配られたから。」
プリントを取り出すと、彼女はわあ、とうれしそうに目を細めた。
「藁半紙の匂いがする。」
ふふ、と目を細める様子に、何故だか目を離せなかった。
「がっこうの、におい。」
うれしそうに、笑う。
「柳!」
廊下の向こうから声がした。幸村が、片方松葉杖を付いてやってくる。隣で彼の母親が、あら蓮二くん、とうれしそうに目を細めるのが見えた。ふたりはひとことふたこと言葉を交わして、母親の方が先に彼の方へやってくる。
「ごめんなさいね、今日は検査で。待たせちゃったわね、」
「いえ、こちらこそ突然きましたから。そんなに待ってませんし…」
ずっと話し相手をしてもらいました、と隣を指すと、突然話題を振られたことに驚いたんだろう。彼女が目を丸くしていた。
「あらちゃん、ありがとう。」
彼女がふふふと笑うと、いいえ、とその子も笑った。そうかと言うのか、頭の隅で少し思う。
「母さん、いつまでも話してていいのかい?」
幸村だった。いつの間にかここまで歩いてきている。たくさん歩いたためか頬がうっすらと上気して、いつもより幾分健康的に見えた。
あら、と言ってからじゃあごめんなさいねゆっくりしていってね、と言いながら母親は慌てた様子で病室に飛び込み荷物を持って出て行った。忙しそうだな、と彼女が後ろで乱雑に結わえた髪を見て思う。
「冷蔵庫にプリンが3つちゃんとあるからみんなで食べてね!」
廊下を曲がりきる直前によく通る高い声でそれだけ言うとにっこりと笑って階段を降りて行った。
母さん声が大きいよ…、と呆れたように顔を覆う幸村を、元気そうだと彼はいつもよりもっと目を細くして眺めた。
「プリン、幸村の母さんの手作りか?」
「ん?ああ。妹と作ったって。」
今も妹を迎えに帰ったのだという。幸村の実家と病院との距離を考えて、やはりきゅうと喉が詰まるような気がした。
「それは楽しみだな」
それでもすんなりと声は出た。
彼の母親は料理がうまい。
「ちゃんもおいで、」
隣でどうしたものだろうかと思案顔のに、幸村がそう微笑んで、彼女がいいの?と目を丸くする。
「もちろん。」
母さんも3つちゃんとあるって言ってただろう、と頷いた幸村ににっこりが微笑むのを彼は静かに見ていた。
カーディガンを肩にかけたままの幸村を先頭に、三人は少し歩く。片手で器用に身体を支えてドアを開け、2人を中に通した幸村に彼は少し微笑んだ。
ベッドの上に腰掛けながら、幸村が笑う。
「噫、いけない。日記を出しっぱなしだ。」
日記が畳まれるのを見ながら、彼は転がったペンを拾ってそっとテーブルに置く。ちゃんプリン出してもらっていい?と言われて彼女が冷蔵庫を開く。その後ろへ歩いていってどれ?と覗き込む幸村としゃがんだの背中は、よく似ていた。
「おいしそうだね。」
「そうだね。」
良く似た笑顔で二人が彼を振り返る。
「ほら、柳。おいしそうだよ。」
ああ、と頷きながら彼も少し笑った。
「で、突然どうしたんだい?」
空になったガラスの容器に、カチリとスプーンが鳴る。
ああ、と思い出してプリントを取り出そうとして、鞄の上に置いたままの花を思い出す。早く生けてやらないとしおれてしまうだろう。少し考えて、彼はふと笑った。
花をとるとプリントを取り出し、顔を上げる。
「これは幸村に。」
結構な束のプリントに、幸村が目を丸くする。
「これは…はい。」
花を差し出されてが目を丸くしている。
「野郎に貰われるより花も喜ぶだろう。」
その台詞に背中で幸村がキョトンとした後、くすくすと笑う。しかし彼の穏やかな顔はぴくりともしない。あ、ありがとう、と花を受け取りながら、花と同じ色になった彼女の耳がかわいらしいと彼は素直に思った。
(20080724)
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