舞台:春 春。 川沿いの菜の花が密生する河川敷にひとり背の高くほっそりとした青年期と少年期の硲にあるこどもが立っている。どこか儚げで凛とした佇まい。 白いシャツ。少し長い髪は紫紺味を帯びている。春の日差しは明るく、菜の花の黄色を反射してなお明るい。白い頬。かすかに浮かぶ透き通った微笑。細かい鑢が心の表面をこすっていくような、不思議な心細さ。 忽然と始まる彼の独白。 |
少年:独白 俺たちがまだ小さな頃は、わずかながらの昔懐かしい景色が、灰色の箱の隙間すきまに残っていた。団地の裏手にあった田んぼは、今はもうない。小学校の隣にあった小さな畑は、とっくにコンクリートの運動場になった。川沿いの土手には延々続く菜の花畑があって、春には黄色い川か道に見えた。 菜の花の黄色は、遠くからでもよく見える。 今でもその、春色の道は残っていて、季節が廻る度に現れては、不思議な気分にさせる。 ひとつひとつは小さな花の、巨大な集合体の直中に立つと、まるで異国へ来たような気分に陥る。 黄色い花は春の光の下で明るく、それ自体が蝶の鱗粉でも振り撒いたようにさらさらと発光している。目の前を白い蝶が飛んでゆく。川沿いに緩やかに蛇行しながら続く花の道は、どこまで繋がっているのだろう。 遠くの空で光が舞っている。風が吹いて、ひとりはなのみち。春が来ると忽然と姿を現すこの巨大な塊は、いったいどこから来るのだろう。 昨日まで閑散としていた河川敷を、一面に覆い尽くすこの花の群はなんだ。 かつてその花は、俺の胸まであった。 瞼に染み入るような、光に溶け出すような、その黄色に溺れそうな、錯覚をしたことがある。道は川でもあった。流れはなく、ただ緩やかに、しかし確かに入るものを窒息させる。 今その花の流れは、俺の足の付け根あたりにある。その中に倒れ伏さない限り、溺れることももうないだろう。 それでも俺は、たまに錯覚をする。溺れる。 風が吹くと揺れて、さらさらと音をたて、光を蒔く。 いつか俺がまだ健やかなばらいろの頬をした子供だった頃。 畦道があった。蓮華が咲いていた。いびつな四角い田んぼがあった。たんぽぽが咲いていた。小さなかわいい畑があった。すみれ、なずな、つめくさ―――。 川は今もある。 春と共に現れる花の道がある。 蓮華はグリム童話、すみれなら枕辺のお話、たんぽぽならエンデ、なずななら内緒話、つめくさならケルトがいい。 菜の花はこの国のはなし。ただなかに立つと見える。遙か遠い野辺の国。近くて遠い不思議の物語がいい。 菜の花の黄色は春の色。寂しくなるほど明るくて、こころさわぐ。 菜の花は春の花。 花の道を敷く、遠野に咲く花。 |
舞台:暗転 最後まで菜の花の黄色だけが残る。 |
舞台:菜の花の道 幼い少年少女。白い服。明るい笑い声をたてて、じゃれている。ばらいろの頬。 遊び疲れて寝ころんだのか、花に隠れて見えなかった小石にでもつまずいたのか、少女の方の姿が、ふいにその、背の高い花の群れのなかに沈んだ。少年はそれに気付かずにしばらくの間少女の前を駆け、やがて笑い声を上げながら振り返って茫然とする。 いない。 ぽかんとその顔に驚きが広がり、それから見る見る内に不安が広がる。 きょろきょろと大きな目玉を必死に辺りに凝らして、しかし少年は泣かなかった。ただその目は見開かれたまま、瞬きをしない。小さな手のひらがお腹の前で握られている。細い肩がこわばっている。いない。 やがて菜の花の水面から、少女があがってくる。 口元に楽しそうな微笑をして、髪に花びらをつけて。 まるでなにもおそろしいことなどないのだよと言うように。 少女は水から上がって第一声、少年に向かって首を傾げる。 「どうしたの?」 少年の右の目玉からひとつぶ、涙が落ちている。 |
舞台:菜の花の道 風が吹いて花が揺れ、少年少女が真っ白なカーテンの向こうにだんだん見えなくなる。 菜の花の道から少し離れて、土手の上の道を、自転車を押した先ほどの少年が少し成長した姿でやってくる。青い自転車は若干彼には大きいようだ。肩からこれもまた、少し大き過ぎるような、テニスのバッグを背負っている。その少し前を、軽やかな足取りで、踊るようにやはり少し成長した少女が歩いている。スカートの裾が、ヒラリヒラリと揺れる。少女の手には何本か菜の花が無造作に摘み取られている。赤いランドセルと青いリュックサック。 菜の花に埋もれながら、それを摘んでいた赤いランドセルを見つけて、テニスクラブの帰りだった少年が声をかけたのだ。 季節は春。花の道は黄色く、二人の見下ろす土手の下、川に沿って緩やかに蛇行しながらどこまでも続いている。 「ね、これ、ほんとに食べるの?」 「ほんとだよ。前母さんが、作ってくれたもの。」 ふうんと感心するように目を丸くして、少女の方が手にした花を見た。 「あまい?」 少し期待するような響きだった。 「にがい。」 すぐ返された予想外の答えにまた少女は目を丸くして、しげしげと再び花を眺める。 「こんなにかわいいのに!」 「かわいいからって甘いとは限らないだろ。」 「だってこんな黄色なのに!」 「、意味わかんない。」 おかしそうに少年が笑って、少女がくちびるを尖らせる。あひるみたいと言われてますますくちを前に突き出す少女に、やっぱり少年はわらう。 二人はそのまま、上手から下手へと、ゆっくりと他愛もない話をしながら去ってゆく。 |
舞台:変わらず菜の花の道 再び上手から、制服を着た少年少女。テニスバッグは少年の背中にしっくりと収まるサイズになっている。自転車もまた、彼のためにピカピカに磨かれ、ちょうどよい大きさに見える。彼の押す自転車の荷台に、少女が乗っている。足をぷらぷらと中に投げ出し、横座りでわなく、ちょこんとお尻の先だけひっかけるようにまたがって、進む方に背を向けている。手には一輪、菜の花の先。自転車の荷台からとっさに手を伸ばしたら、先だけ千切れたのである。 「ね、自転車漕いでよ。」 首だけぐりんと後ろに向けて、少年に言った少女に、彼はチラと目線をやって、それからため息をついた。 「やだよ。」 即答。 分かりきっていた答えに、「え〜、」と言いながら、彼女はそれ以上何も言わない。ぷらぷらと宙に投げ出される右足のくるぶしを、白い包帯 が包んでいる。ぷらぷら。 「ケチ。」 「、知ってるか?二人乗りは昨今罰金をとられるんだぞ?」 「意気地なしー。」 「へェ?」 自転車を止めて、彼がちょっと少女のほうを振り返る。その目の冴え冴えとしたことに彼女はびくっと肩を震わせて、首を左右に大きく振った。 「嘘!うそ!冗談!ごめんなさい精市くん運んでくれてほんとうにありがとうございます!」 「よろしい。」 くつりと笑って、また彼は自転車を押し始めた。ぷらぷら。菜の花がさやさやと揺れて、黄色い川全体がわらったようだ。ふわふわり、はるのかぜ、と退屈した少女が歌い出す。 |
舞台:菜の花の道。 歌う少女を乗せた自転車が下手へ去った後で、今度は下手から、今度は少女だけが歩いていくる。春のうららかな日差しの中、とぼとぼと重たげな足取り。うなだれた横顔は無表情だ。 土手の上で立ち止り、菜の花の蛇行する群れを眺めた後で、少女は緑の坂を下りだす。ザクザクと草を踏む音。黄色い海を掻き分けて、少女は一心にその先に進んでゆく。群れは彼女の腰辺りまである。客席からは、少女は背を向けているのでその表情を見ることはできない。小さな背中が遠ざかってゆく。 花の道の中ほどまで辿りついたところで、ぱっと少女が仰向けに倒れる。わざとなのかつまずいたのかは判別することができない。そこだけ花が騒いで、小さく黄色が空に飛び散る。 鳥が慌てて飛び出した。 一瞬の後、かわらず黄色い道は静まり返り、少し川のきらめきに目をそらした後では、少女がどこに倒れたか思いだせない。 少女を呑みこんだまま、黄色い道はどこまでも続いている。 |
舞台:菜の花の道 上手から、以前よりさらに成長した少年と少女がやってくる。彼はやはり自転車を押し、それを挟んで少女が歩いている。土手の下には菜の花の道。先の二人とは、制服が変化している。少年の背は、もうずいぶんと高い。やはり背中には、おなじバッグを背負っている。 一定の距離。 ふいに談笑のさなか、少女がぱっと土手を下りだす。少年ははっと足を止め、その背中をしばらく見ているが、少女の足が花の群れの中に入ろうとしたときに、 「、」 とするどく一度、大きくはない声を出す。 その声の響きは不思議な調子で、少女ははっと足を止める。どこか必死なようでも、危険を知らせる声のようでも、幼い子供のような声でもあった。打つような響きだった。 「一本だけだよ。」 ばつが悪そうに、少年の返事を待たずに彼女は一輪、花を中ほどから摘み取る。みなさまごきげんよう、と無造作に選ばれた一輪は少し澄まして群れから離れる。 「はやくおいで。」 「うん、」 「…置いてくよ。」 少年が本格的に自転車をおして歩き始めたので、少女は慌てて黄色い道に背を向け、急な土手を登りだす。 先に舞台袖へ消えて行きかけた少年を追って、少女も下手へ去る。 |
舞台:菜の花の道 間。 ややあって少年と少女―――もはや二人は青年である。がそれぞれ上手と下手から来る。遠くからそれに気づいた女性の方が手を振り、それを認めて彼はちょっとだけ肩を竦めた。その肩にはやはり、大きなテニスバッグ。今日も自転車を押している。もはやこの黄色い道沿いの土手を、はしらずに歩くのは幼いころからの習慣になっていた。 彼女は白いふわふわとしたスカートに、かかとの高い靴を履いている。彼の方は、しっかりとしてスラリとした足をベージュのズボンに包んでいる。 「久しぶり!」 彼女のほうがついに駆けだして、彼はそれに苦笑しながらゆっくり歩いて出迎えた。 「…ひさしぶり。」 今日の日射しのように顔を輝かせる彼女の方を、高い背で見下ろして、彼がやっと普通にわらう。 「ちょっと!なんでわらうの!」 「…だって、…犬みたい。」 「はああ!?」 再びくっと吹き出した彼に彼女が拳を振り上げる。彼はそれを黙って受けてやるほどあまくはなく、ただ静かに笑いを一旦収め、「へェ?」と件の目で見下ろす。それに一瞬、うっと唸って動作を止めた彼女に、再び彼は高らかな声で笑い出した。 悔しそうな彼女が大きな声を上げる横を、二人乗りの高校生が自転車で通り過ぎた。 それをしばらく目で追いかけた後で、「今帰りなの?」と尋ねる彼女に、彼は簡潔にああと答えた。 「は?」 「えっ!…駅、に!」 目をふよふよと泳がせて、彼女が言った。デートかなと思ったけど彼はなにも言わなかった。少し居心地の悪いような沈黙の後、 「乗せてってあげようか?」 と彼が首を傾げる。 口をぽかんと開けたあとで、彼女が無言で何度も頷くと、彼は自転車をぐるりと方向転換させた。そのまま跨った彼の背中を彼女はしばらくじっと見ていたが、やがて荷台に横向きに腰を下ろす。 「いい?」 「…うん。」 行くよ、と彼の方がぐいとペダルを漕ぎだして、ほんの少し、彼女がそのシャツの裾を掴む。 |
舞台:菜の花の道 下手から、スーツを着込んだ女性が歩いてくる。歩きにくそうにしているが、やがてひとりで、「あー!ああー!もう!」と大きな声を出すと、黒いヒールの靴を脱ぐ。夕焼けで、黄色い道がだいだい色に染まっている。この時間独特の、涼しい風が、熱い直射日光の上を滑るように撫でる。ふう、とそれに目を細めて、彼女は裸足で歩き出した。 背中から自転車のベル。振り返らず面倒くさそうに土手の脇へ寄ろうとした彼女の耳を、「!」とよく知った声が打つ。ずいぶん久しぶりに聴いた声だ。 「精市!」 くるりと振り返った彼女を、彼が呆れたような、かわいそうなものを見るような目で眉をひそめて見下ろしている。ああみくだされている。無感動に彼女は思う。怒る元気すらない。 「なに、その格好。」 「つかれた…、」 うっと少し声を詰まらせた彼女を、やはりかわいそうなものを"みくだす"ような目で見たあとで、彼はふうとため息を吐いた。 「後ろ、乗ってくか。」 ほとんど疑問文ではなかった。 うんと鼻をすすりながら、彼女がゆっくり彼の背後に回って、荷台に横向きに腰を下ろす。 「鞄、」 「ん?」 「カゴ、乗せてあげるから。」 「…ありがとー。」 ひょいと持っていかれた四角い鞄を見送って彼女はそのままなにも考えずに大きくため息をついて、大きな背中に体を倒した。落ち着く匂いがするとぼんやりと思う。彼の春らしいベージュ色のコートに対して、自分の真黒な服装を考え、再びため息を吐いた。 「いいなあ。学生。」 「…じゃあも医大に来ればよかったんじゃない。あと2年は学生してられたのに。」 自転車がゆっくりと走り出す。 「私の成績知ってるでしょ!」 「嫌味だよ。」 「わからいでか!」 風がほてった頬に気持ち良いなと思った。薄いストッキングのつま先はもちろん破れている。赤い爪がそこから覗いていて、ふいにおかしくなった彼女は、声を立てて笑いだす。怪訝そうに少し振り返った彼のお腹の前に手を回しながら、「もっと早く!」と子供のような、はしゃいだ声を出す。 |
舞台:菜の花の道 青い自転車が、菜の花の道を下ってゆく。 前には大人になった男の子、後ろに大人になった女の子。今日は日曜日で、自転車の前カゴには菜の花が山と乗っている。食べるの?いやだなあ、これだから情緒がない。菜の花の道を摘んで、花束を作る。彼女の白いスカートが、ふわふわと風に流れてゆく。彼の白いシャツの残像が、きらきらと輝く。黄色い道が、ざやざやと鳴っている。いつかあなたがたもこの道を渡って―――河の向こうへ去る。その時までどうぞ。 自転車が下ってゆく。 明るい笑い声が、春の空に響いている。 夏が来ますよ。 |
舞台:菜の花の道 春。 川沿いの菜の花が密生する河川敷に、背の高い優しげな様の男と、長い髪を解いた女が立っている。黄色い花の群れの中、白いシャツと、白いワンピース。春の日差しは明るく、菜の花の黄色を反射してなお明るい。健やかな頬をして並んでいる。かすかに二人の口端に浮かぶ透き通った微笑。穏やかなオルゴール、どこかから聴こえている。 「俺たちがまだ小さな頃は、わずかながらの昔懐かしい景色が、灰色の箱の隙間すきまに残っていた。」 「菜の花の海の底で、初めてその少年がいなくなるという可能性に行き当たった私は、おそらく途方に暮れていたのだ。」 「花の群れは何処までも続く。忽然と現れてそうして消える花の道は、どこから来るのだろう。」 「赤いつま先も夕焼けに光る黄色い花も、すべてが尊い。」 「どこまでも続くこの道は、死の先にも続くだろうか。」 「暗い話が嫌い。」 「どうして花の道は、めぐって来るのか。」 「きいろい菜の花、春の道。」 「並んで走った、」 忽然と始まる彼と彼女の独白。それらはふたつ重なって、いつの間にかただの優しいおしゃべりになる。とりとめもなく続く、二人分のモノローグ。 「菜の花をね、摘んだんだ。」 「へえ?」 「…あげてもいいよ。」 花の中に立つお前になら。 |