その日裂け谷は朝から上へ下への大騒ぎだった。
 先見の鏡池に、見知らぬエルフが浮かんでいたのだ。それは黒い髪の女エルフで、見つけられたときにはまるで、水に透けるかと思われるように、白く透き通った頬をして池に仰向けに浮かんでいた。黒い髪が扇のように広がり、伏せた睫の影が長く伸びていた。頼りなく水面に漂う指先の儚いこと。そのまだ若く見えるエルフを、不思議と知るものはなかった。
 エルフは大抵、なんらかの集団に属しておりその数は多くはない。多くのエルフが立ち寄り、また長く生き多くの者と出会ってきたエルフが多いこの国で、誰も彼女を知らないというのはおかしな話だった。こんなにも若く、うつくしい娘ならなおさらのこと。
 掬い上げられた娘は、水のように冷たく、しかし生きていた。
 濡れた服を着替えベッドに横たわらせ治癒を施し、その間も噂好きのエルフたちの詮索は尽きなかった。
 あの娘はどこからきたのか?なにものなのか?いったいどこのエルフなのか?黒い髪は半エルフだろうか?旅装束に剣を持っていたぞ、ギルドール殿の知り合いではないのか?あの方は今いずこに?流浪の王の行方など誰が知ろうか。
 エルフたちの言葉で、ざわめきが波紋のように広がってゆく。エルフたちは大概変わりなく移ろう日々に退屈しているのだ。だからこういった、不思議な出来事は彼らには楽しくて仕方ない。
 そんな風にのんきに憶測の広がる向こうで、裂け谷の主はてんてこまいだった。
 娘の治療からその出自調べまで、まったく彼とその側近がやってのけたようなものなのだ。娘姫がいればもう少し楽だっただろうが、彼女は祖母であるガラドリエルの元へ出かけた最中だった。おまけに上の兄ふたりときたら娘のまわりを珍しそうに動き回るだけでちっとも役に立ちはしない!その眉間にエルロンドは深く皺を刻んで椅子に深くもたれ掛かっていた。わずかに握った娘の手は、だんだんとぬくもりを取り戻しつつある。もはや本人の治癒力に任せてもんだいないだろう。彼は手を離し、その細い手を布団の中にしまってやると、深く息を吐いた。

「エルロンド卿。」
 入ってきたのはグロールフィンデルだ。ああ、と返事をひとつ返して、彼は顔を上げた。
「お疲れですね。」
「ああ。…それで?わかったか?」
「いえ、誰も彼女を知りません。」
「…そうか。」
 はい、とグロールフィンデルが頷く。美しい見事な金の髪が、白い部屋にサラサラと光を撒いた。半ば予期していたことだった。
 エルロンドは夢を見ていた。今朝早いことだ。
 先見の鏡池。それは緑の森と化した廃墟の中にあった。崩れた白亜の城の中、滝だけが変わらず水を落とし、池はそれを受け止め続けている。滝の音だけ響いていた。静かだ。エルロンドは深く息を吐き、ふと顔を上げた。
 羽ばたきの音。
 鳥だ。
 真っ白な白鳥が、池に下りた。銀の目をした鳥が、彼を見て言う。言葉はない。
念話だ。
『わたくしとはいったいなにものなのか。そしてあなたとはなにものだ?こことはどこ?あなたは今本当はどこにいるのだ?本当にそこにいるのか?そことはどこだ?本当とはなんだ?なにがそれを定義する?』
 彼は答えることができなかった。鳥のその目が、長く生きてきた彼をなぜか畏怖させた。
『あなたとはいったいなんなのだ?そしてなぜそこにいる?』


「卿、」
 グロールフィンデルの声にふと回想から彼は帰った。今朝の夢には意味があるとわかっていた。彼女こそあの白い鳥なのか。黒い髪。しかし本当にそうだろうか?
 彼の指し示すほうをエルロンドは見て、(噫、)と嘆息する。
 銀の目。
(鳥だ。)
 娘が寂しい夢から覚めたばかりのような、どこか鬱陶しそうな憂鬱な顔で目を開いて天井を見ていた。その口が小さく小さく囁く。
「…どこ?」
 エルロンドは目が離せなくてただ固まっている。窓の外で鳥が羽ばたく音がした。



04.stranger
20071015/