名前を呼ばれて、娘が振り返った。長い黒髪がゆったりと、彼女の動きに続いて揺れた。娘は白い服を着ている。簡素なつくりのドレスではあるが、上質なものであることは見て取れた。胸元の刺繍は繊細で、雪上の彫刻のようだった。
「!」
と呼ばれて娘が微笑む。まるで幼子のような微笑だ。おそれるものは何もないとでも言うような、安心しきってとろけたような笑みだった。それはまるで無防備で、同時にとても頼りないものだった。その安堵の裏には、常に彼女に付きまとう不安があるのだ。名を呼ばれて彼女はほっとして笑う。しかしその次の瞬間には、ほんの少しばかり泣き出しそうな、微笑に変わるのだ。彼女自身気づいていないかもしれないが、周りはもちろん知っていた。この子の不安も、その底の怯えも。
彼女はいつも怯えている。自分自身の存在がこの時代に及ぼしうる影響と、それからこれから起こったであろうことと、それから。
―――私は何者なのでしょう?果たして本当に、エルフなのでしょうか?
そう尋ねた娘は今も自らが何であるのか知らない。ああしかしそれを真に知りうるものなど果たしているのだろうか?
娘の名を呼んだ双子の王子の片割れが、おおい、と笑って娘に近寄った。彼女は立ち止まってそれを待っている。
、今日の勉強はもう終わったのかい?ならば我々と今日は遠乗りにでも行きませんか、そんな陽気な声が風に乗ってふうわりと聞こえてくる。
日は燦燦と照って、若いエルフたちをまばゆいほどに包み込んでいた。緑の木々に光が照って、その乱反射であたりは白く見えるほどだ。
バルコニーからその様子を見下ろして、エルロンドが小さく微笑んだ。
平和な景色ではないか。息子達は遠乗りへゆく、新しい妹を連れて。
光の溢れる方に背を向けて、うっすらと暗い回廊の影へ戻る。日影は青く、水の中のよう。遠くの音が、エルフの耳にはぼんやりと聞こえた。
もう人間の時間で半年も経つだろうか。
池に浮かんだエルフの娘は、遠い未来から来たのだといった。未来を――この世界の終局を知る娘。今はまだ息を潜めている闇と、中ツ国すべての生物との戦いのその結末を、おそらくは知る娘だ。その存在の、どれだけ稀有で危ういことか。
決して先のことを口にしてはならない。この時空で生きるために、忘れなさい。それが無理ならば口を閉ざしなさい、貝のように。決して決して、言葉にしてはならない。
それが彼女に課せられた制約であり、義務であり、そして最大の保護であった。
未来を知れば結末を自らの有利な方へ進められるとはこれっぽっちもこの賢者は思わなかった。近い未来を見通す力のある彼にとっては――その先見の力というものが、大した役に立たないことは知っていたからだ。未来が見えるからと言って、見ただけでそれを動かすことはできない。知っているからどうにかなるものではないのだ。彼は思う。自らの見る未来など、ゆめまぼろしのようなものにすぎないのだと。それらに縋ることの愚かさも、それらを無視することの愚かさも、それらに妄信する愚かさも、すべて彼は知っていたのだ。
そして未来が、移ろいやすいものであることも知っていた。未来は変わる。それこそ無限の絶望と希望を秘めている。今朝見た未来が、夕方には変わっていることなど珍しいことではない。近い未来でそれが頻繁に起こるなら、遠い未来など、どれだけ不安定で不確定なものだろうか。今朝見た夢の延長線から、娘はなぜかやってきた。蜘蛛の糸より薄く頼りない、儚げな時間の隙間を通って。今いるこの次元が、娘の来た地点よりは随分と遠く、月とこの大地くらいに、離れていることを彼は知っていた。彼女にとってここは、過去である以上に別次元であるのだ。
彼女の知る未来が、たとえ自分たちにとって喜ばしいものであろうがなかろうが、大した問題ではないのだ。
問題は、彼女が我々を"知っている"ということだった。我々の進んだ道を知っていることだ。それは戒めだ。彼女の言う"過去"の可能性を切り捨てエルロンドたちの道を制限してしまう。それはなにより恐ろしいことだ。事実として、過去として定められ、そして見られるということは、破滅だ。彼は思う。それこそが破滅だ。定められてはおらず絶えず移ろいゆく。だからこそ、彼らには希望があった。それを縛るのは彼女の知る歴史だ。それはここではまだ起こってすらいない、未来に起こり得る無限の可能性のほんの一部に過ぎない。
だから彼女は沈黙を是とされた。"これから起こったこと"を口にしてはならない。
それに、もし、もしあの暗黒の王だ彼女を知ればどう思うだろう――?恐ろしい考えだ。エルロンドは少し身震いをする。
彼は彼女を消したがるだろう。他の何よりも。彼女が彼の敗北の証であるのなら。彼は彼女を欲するだろう。まだ残っているのなら力の指輪の次に。彼女が彼の勝利の証であるのなら。
彼自身、彼女がどのような未来から来たのかは聞いていないし―聞いてはならない禁忌だと、考えている。
しかし彼女には、何か意味があるのだった。、その娘が現れた朝、賢者の見た夢。
『そして貴方とは何者なのだ?どうしてそこにいる?』
銀の目をした白い鳥。
自室の扉を開けると、誰かが開けたのだろう、開け放たれた窓から心地よい風が吹き込んだ。平和な景色だ、そう思う。
「あれはお前なのだろう?…。」
黒い髪、銀の目をした娘。彼は少し微笑んだ。
身寄りのなく、そして限りなく重要で危険で頼りない人物である彼女を、養女に迎えると言ったときの彼女の驚きようったらなかった。あのエレストールが思わずぷっと吹き出すくらいには。
最初は申し訳ないだの不相応だの迷惑をかけるのはなんだどうしたと恐縮しまくっていたが、近頃では落ち着いてきたようだ。それでいい、と彼は思う。
この世界が潤滑に時を自由に進めるために彼女を監視下に置かねばならない、というのは建前だ。単純に、気に入った。あの娘はエルフのくせに人の目をして笑う。自らのことを何も知らず赤子のよう、そのくせ賢者に解けぬ難題をふっかける。
エルフの癖に、まるで人のよう。瞬きする間に消えてしまいそう。
だからなんとなく、かまっておきたくなる、留めておきたくなるのだ。消えてしまわないよう傷ついてしまわないように。美しい子だ、そして優しく聡い子供だ。娘が一人増えたことを、なんとなく彼は嬉しく思う。きっと海の向こうの彼女も、こんな娘が増えたと知れば喜ぶだろうから。そういえば彼女は、妻に少し似ている。つまりは彼の娘にも。
だから彼は少し微笑んでいる。ずっと難しい顔ばかりの威厳のある目元を少し緩めて、日向の窓に目をむけて、やんわりと微笑んでいる。
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