裂け谷に彼がやってきたのは、まだ浅い春だった。森にはこぶしが白く咲いて、雪をまぶしたようだった。早春の浅黄色した小さな芽が、あちら、こちらで、春を呼び、囁く。美しい季節だ。白馬に乗って進むエルフはまだ若い。この春の日向のような金糸の髪が、緑陰にそよいだ。木の葉が擦れ合って、さらさらと囁く。ようこそ、ようこそ、エルフの君。彼がこの地を訪れるのは久しぶりだった。いつ訪れても、穏やかに静か。 しかしどうも、今日は様子が違うようだった。楽しそうなざわめきが、風に乗って彼のとがった耳の先に届く。めずらしいことだ。彼は少し首を傾げ、馬を進める。 小さな小川が見えてくれば、もう裂け谷の領内だ。エルフの力が、土地に満ちているのが分かる。それに比例して、声も近くなる。楽しそうに、笑う声だ。それから歌と、楽の音。エルフの宴は珍しいことではないが、重なることも珍しい。偶然よい日に来たようだ。少し笑うと、白く美しいアーチが見えた。門番が、彼の姿を認めて駆け寄ってくる。 「これはこれは、めずらしいことです!お久しい、緑葉の王子!」 「ええ、本当に。」 馬からひらりと降りて微笑みを返しながら、彼はアーチの向こうへ目を凝らす。明るい光の乱反射で、あたりは明るく光って見えた。 「今日はなにかお祝いでもあったのですか?」 ああ、と笑って頷きながら、門番は馬を引いた。 「お祝いといえばお祝いなのですが、」 答えながらも彼はくすくすと堪えられないように笑う。それにますます、若いエルフは興味をそそられてその顔を覗き込んだ。 「いえ、特別めでたいことがあったわけではないのです。ただ、」 「ただ?」 「妹姫たちがロスロリアンから昨晩やっと帰って来られたので、うちの王子たちが張り切ってしまって。」 姫"たち"?その聞きなれない単語にきょとりと彼が首を傾げた時だ。風に紛れて、歌が届いた。不思議な声。透明な水のような、ヒヤリと冷たい"やさしい"。硬質で、伸びやかな、少し掠れたあまい声。それに聞き覚えのある、麗しい夕星の声が絡む。 不思議そうに首をさらに傾げた彼に、門番が、うちの姫"たち"ですよ。と少し秘密を楽しむような顔で笑って、「さあ、卿がお待ちです。」と彼の背を押した。その秘密を、今打ち明けてくれるつもりはなさそうだ。しかたがないと首を竦めて、彼も少し笑う。 春の花のかおりがする。白い花が咲いている。空が青い。エルフは馬の鼻面を少し撫ぜると、軽い足取りで歩き出した。歌が聞こえている。 |
10.whispers in the tree |
20090301/ |