灰色の魔法使いは、遠い世界からきたのだという娘を不思議な色の目で優しく眺めた。エルフたちがたいそう気に入って世話を焼いていると聞いてはいたが―――なるほどたしかに、これは巣から落ちたひな鳥だ。かすかにウルモの気配。水の神。

 数ある呼び名をひとつずつ丁寧に並べた後で、「まあ!ずいぶんたくさんお名前があるのですね。」 魔法使いは灰色の髪の向こう、パチリと片目をつむった。
「ミスランディアとエルフは呼ぶのぅ?」
 長い髭が気になるのか、チラチラ視線をやるに、魔法使いは少しわらう。
「ではミスランディア、と。」
「うむ、好きに呼んでくれればよろしい。」
 害があるものではない。むしろ善いものだ―――エルフと同じに。館の主に会った感想を伝えるために、彼は心の中でという存在の印象をまとめ始める。
 エルフでありながら、人の子のようであり、エルフを超えたものとも思える。…ヴァラが絡んでいるかもしれん。彼は静かに瞑想する。時を超えて?善ではあろうが、彼女の持つ知識が危険だ。彼女自身もそれを恐れている。―――恐れは闇を寄せやすい。
 ふむと魔法使いはしばし考え込むと、目の前の乙女を改めて眺めた。
 長く尖った耳の先、豊かな黒髪を今日は高いところでひとつにまとめあげている。美しいかんばせはアルウェンに似て、幼さのためか気性のためか、彼女より幾分やわらかで控え目だ。をくるむ星明かりは、ずいぶん優しくあたたかい。風情は透き通った水か透明な花か。
 魔法使いの思考は、乾いた土に水が沁み入るように、一度に多岐に広がってゆく。

、お主恐れておるな。」
 その言葉にがハッと顔を上げる。
「まだ起こっておらぬことを"知っている"のは恐ろしかろう。」
 しかられた人間の子供のように、こぶしを握り、は肩をちぢめて小さくなる。
 恐れることはないのだと言うように、魔法使いは口端を持ち上げてみせた。それでもなお、の不安げな表情が消えることはない。
「自分の"知識"と存在の恐ろしさを知っていることは利口じゃな。しかし恐れは、闇を寄せる。」
 今度こそ青ざめた娘に、魔法使いはその乾いてひび割れた、枯れ木のような手を差し出した。武骨な指は老いた形をしているが、力に満ちた、マイアの手である。
 神々に連なる者の手だ。
 はそれを、神秘と畏敬のこもった眼差しで見つめた。

「お主にいいものをやろう。」

 贈り物じゃよと片目をまたパチリとさせる。
 魔法使いの指先からふわりと浮かび上がったのは、
「…蝶?」
 ひらり、ひらりとほのかに発光している。目を丸くしたの前で、蝶は透けるような羽根で舞い上がり、パチンと光の粒子になって弾けた。
「なにほんの気休めだがな。」
 呆然と見上げるの手のひらに、肩に、頭に、まつげの先に、うっすらと光が積もる。光はに触れた瞬間だけ黄金に輝きを増して、吸い込まれるように消えてしまった。

「………あつい。」

 ぽつりとがつぶやく。
 光の積もったところがじんわりと熱かった。顔中に疑問符を貼り付けて娘に見つめられた魔法使いは、いつの間に取り出したのか、パイプで煙草をふかしだした。
「ミスランディア、」
「ん?やはりホビット庄のパイプ草が恋しいのう…。」
「今のはなんです?」
 ぽかぽかと血が巡り始めたのを感じながら、がたずねる。血の気を失っていた頬はうっすらと赤味がさしている。
「お主の来たことをなかったことにはできぬしその知識を消すこともできぬ。それはお前さんが口を閉ざすことでしか隠せぬのでな。」
 しかし、と続けながら魔法使いは一度パイプを膝で叩いた。

「お主が闇に凍えるとき、アノールの炎は内から燃え、闇に迷うときには、導く。」

 茶目っ気たっぷりに、魔法使いの目が微笑む。それにが、小さく開いたままだった口を改めて開こうとした。「…ミスランディア、」そのとき。

『ミスランディア!あなたばかりずるい。は今日は私たちと遠乗りに行く約束をしたのです。』
 流れるような美しい響きの言葉が、それを遮った。
 場所はよく陽のあたるバルコニー。緑葉の王子が、白い柵の向こうからひょっこりと顔を出してわらっている。
「ほう?それは悪いことをしたのう。」
 ちっとも悪びれずに、老人がパイプを口から離した。ぷかりと口から吐き出された煙が、馬の形になってから消える。
「ミスランディア、レゴラス様はなんと?」
 小さく尋ねられた言葉を耳聡く聞き取って、レゴラスはこのエルフの姫がエルフ語を解さないのだと悟る。
「ああ、すみません。迎えに来たのです、。あなたの兄君たちが待ちきれずに騒々しいものだから。」
 もうじき闇の森へ帰るのだというレゴラスを誘って、今日は双子の王子と妹姫ふたりは遠乗りへ行く約束だった。そこにふらりと、この灰色の放浪者が訪ね来たものだからすっかり忘れていた。

 ごめんなさいと思わず口元を覆うに、レゴラスが微笑む。
「お手をどうぞ、」
 差し出された手をとるよりはやく、柵越しにの体が持ち上げられた。あっという間に柵の向こう、レゴラスの腕に抱えられて、は目を白黒させている。それを幼い少女にするように一度高く抱き上げてから、金の髪をしたエルフは娘のつま先をやわらかい草の上に下ろした。
「さあ、行きましょうか。」
 まだ目を見開いたまま、は「あ、」だの「う、」だの口をパクパクさせている。
 楽しんでおいでと彼女よりよっぽど楽しそうに笑った魔法使いに、今度こそは照れたように顔いっぱい笑った。



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