フロドと指輪のお話。それは誰もが知っている、幼い枕辺の寝物語だ。
わくわくするような冒険譚で、王国の復興と成立に関わる壮大な歴史の物語でもある―――らしい。
時は中つ国第四期も1500年を過ぎ、第四期成立前後に関わる強大な悪との戦いの歴史は、もはや遠く過ぎ去った伝説―――神話へと姿を変えていた。世は平和で、人間たちが日々を暮らしている。かつてこの地に溢れていた様々な種族はいつの間にか姿を消し、今では在ったことすら御伽噺のような、嘘か本当かもわからない御伽噺のレベルとなっていた。魔法は現存せず、その存在を信じているものはいないにも等しい。それは神々の御業であり、すなわち神話の世界の話であったのだ。その時代よりさらに昔、指輪戦争時代に神話と呼ばれたようなさらにふるい年代の話となると、それを知る者など王族であっても少ないものだった。
フロドと指輪のお話。いきてかえらぬものがたり。
そのお話の始まりはこうだ。
昔むかし―――うんと昔だよ、まだミナスティリスの玉座が空だった頃―――ホビットという小さい人たちが暮らす村があってね―――そこにフロドというホビット族の青年がいたんだよ。フロドはある日、とても大変な贈り物をもらってしまって、とんでもない冒険に出ることになるんだ。従者の勇者サムワイズと、それから二人の友達と、灰色ひげの魔法使いと、流浪の王と、エルフの王子とドワーフと、人間の騎士と、9人で旅に出るんだよ。
―――どうして?
どうしてってそりゃあ、そのとんでもない"贈り物"っていうのがね、この世界ができた頃から、この世界に悪事ばかりを齎す悪いやつ―――サウロンっていう化け物がいてね。そいつの武器だったのさ。それを壊してしまわないと、世界は滅びてしまう、ってわけ。それで中つ国に住む人間とエルフとドワーフとホビットとそれからいろんな種族が力を合わせて、サウロンと戦うってわけさ。でもその武器をなんとかしないと、なにせサウロンってやつは、昔は神様の一番弟子だったやつなんだから、それは強くって強くって恐ろしくって、だからね、フロドはその武器を、敵の本拠地にある滅びの山っていう、なんでも熔かしてしまう熱い溶岩の湧き出る山に捨てに行く旅に出るのさ。
―――それって大変?
そりゃあもう、大変なことさ!えらいもんだよ。実際そのフロドってやつは。
―――それで最後はどうなるの?
みんなが力を合わせて戦ってな、フロドはその物騒な"重荷"を溶岩に葬って、悪は永遠に滅び去るのさ。そうして流浪の王であるエレスサール王が―――、
―――僕知っているよ!学校で習ったんだ!一番最初の王様でしょう?
そうそう、そのエレスサール王様がな、美しいエルフの姫君であるウンドーミエル様をお妃にされて、そうして末永く、立派に治世を続けられたのさ。そうしてその王様のご子孫である王様たちが、今もこの国をお治めになっているんだよ。な。めでたしめでたし、だ。
昔々で始まって、めでたしめでたしで終わる物語。
―――ホビットってなに?
背の低い、人間によく似た小さな人たちのことだよ。
―――魔法使いって?
魔法使いってのは、そりゃ、あれだな。手から火を出したり雷を呼んだり―――とにかくすごいんだ。呪文を唱えて姿を消したり。みんな長いひげを生やして杖をついたジジイの姿をしていて―――うん、とにかくすごいのさ。
―――ドワーフって?
ひげだらけのな、ホビットほどじゃあないが背の低い、地面に穴を掘って鍛冶をする種族だよ。みんなずんぐりむっくりとしていて、斧を持っているのさ。
―――じゃあエルフって?
エルフっていうのは!
エルフを語るとき、人間の言葉に知らず熱がこもるのはなぜだろう。
―――エルフっていうのは、神様のおつくりになられたそれはそれは美しい種族なのさ。不老不死でな、みぃんな背が高くって、賢くって、違う言葉を話すんだ。ウンドーミエル様もそのエルフだが、それはもう、美しい生き物なのさ。フロドの冒険が終わったあとで、みんな残らず海を渡って、神々の国へ去ってしまったんだ。
―――じゃあエルフはもういないの?
ああ。エルフだっけじゃない。魔法使いも、ホビットも、ドワーフも、もうみぃんな、いなくなっちまった。あるいは最初っから、そんなのいなかったのかもしれないな。
の時代の知識といったら、そんなものだった。
千年を軽く遡る過去の出来事は忘れられ、伝説を過ぎて神話となっている。
他の人間よりも多く、様々の資料と辿ってその時代のことを調べ歩いた彼女であっても、旅の仲間ひとりひとりの名前を知ることすら叶わなかった。上古の資料のほとんどは、王国の書庫にしまわれていたし、目を通す機会を得たとしてもそのほとんどはエルフ語で書かれており、この時代にその文字を判読できる人間はいなかったのだ。
ただそうして文字が残されているように、確かにエルフのいた痕跡が、この世界のあちこちに残されている。エルフだけではない、ホビットも、ドワーフも、確かにこの世界に生きて存在し、かつて共に闘ったのだ。の知る歴史は、フロドと言うホビットがなんらかの偶然でサウロンの武器を手に入れてしまい、それを助けてあらゆる種族の中からひとりずつ、選ばれた仲間と友人と共に長い永い戦いの旅にでるということだ。
その戦争の記録は、しっかりと読める文字で残されており、想像を絶する凄まじい戦いであったらしい。
戦争に参加した人間の半数以上が死に、エルフはほとんど死んでいる。世界は闇に食いつくされんとまさに滅びの危機に在り、枕辺できく「そりゃあ、大変なもんさ。」などという一言では片付かない歴史だ。
そこでフロドが成功していなかったら―――の生れた"今"は確実にないだろう。
闇の支配する、その世界で、果たして緑は、生き物は生まれるのだろうか?
大いなる悪との壮大な戦いは忘れ去られ、しかし本当は、忘れられてはならないことだったのだ。
彼女の知る知識―――未だ訪れぬ、中つ国第三期、大いなる3018年。
物語の鍵を握るのはホビット―――小さき人。
今この知識が表へ出れば、そうしてそれをかの大悪が耳にしたら―――彼の者はホビットという種族をまずたやすく滅ぼすのだろう。しかし今の世は比較的平和で、ここへきて学んだ歴史によると、伝説のさらに昔の王たちとエルフたちとの戦いによって、サウロンは一度退けられているという。しかしは知っている。そのサウロンは再び復活し、世界に牙を剥くのだ。ならばその前に、今この平和なうちに、フロドというホビットを探し出して、そのなんらかの"武器"を葬ってしまえば?戦争が起こる前にその"重荷"を破壊してしまえば、悪の目覚める前にすべて終わらせてしまえば――――?
"今"は保たれるだろうか。
の生れた、あの平和は世は、生れてくるのだろうか。
エルロンドは言った。それがいかなる未来であっても、言ってはならない。我々の予見と、そなたの識る歴史は、まったく異なるものだ。たとえその知識によって、我々がいかに助けられたとしても、それはなんの意味も実質もない空虚なものに過ぎない。
ミスランディアは言った。口を閉ざすことじゃ、。そうして恐れぬこと。自分の知る"これから"を。たとえその"これから"が自分の知るものと違っても、それが知った通りのものであっても、口を閉ざすことじゃよ。それが良い物ならなおさら。それが悪いことであるならなおのこと。わしらを信じて沈黙してはくれんか?
ガラドリエルが言う。私はあなたの知ること、知っていることを見たいとは思いません。けれど、あなたのような美しい生き物が生まれる世界です、きっとこれから先どんな戦いや苦難があっても―――きっと未来は美しいだろう。だから、何も言わなくてよいのです。そなたがいることが、わたくしたちが私たちの力のみで―――そなたの助言がなくとも―――未来を切り開いていけることの証明ではないのですか?
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