小さな灰色の鷹が谷間の崖を抜けて、裂け谷の狭い空に弧を描いている。見慣れない鳥だ。気がついてが首を傾げるよりも先に、やあ、とレゴラスが見上げて楽しそうに声を漏らした。
クウィンスール
『"風の矢"!』
空の上から、しかしその声を聞きとったのだろう。咽喉を震わせて高い音を発した後で、矢のように鷹は宙を駆け下りてくる。サッと体よりも大きく頑丈な羽を広げて、迎えるように掲げられたレゴラスの腕に、鷹は優しく爪を食いこませた。その羽の起こす風が直接の頬を掠め、灰と言うよりも銀褐色に近いその色が間近で輝く。まあ、と目を丸くするを横目に、鷹はその焦げ茶の双眸をキリリとエルフの王子に向けている。
『良い子だね、』
レゴラスがそう言ってその折りたたまれた分厚い翼をゆったりと撫ぜた。鷹は一度目を細め、それから促すように嘴を一度彼に向けて突き出す。そこに咥えられた手紙を受け取ると、彼はにこりと緑の目をに向けた。
『父の鳥ですよ。さあクウィンスール、姫にご挨拶を。』
その言葉に鷹はくるりと首をに向けた。挨拶なのだろう、一度高く短い声を発する。猛禽類特有の眼差しはまっすぐにを見つめ、その鋭さはまるで時を止めるようだ。
『初めまして、』
エルフの言葉を殊更に意識して口にのせると、鷹は利口そうに少し首を傾げた。その仕草が少し、飼い主の息子に似ているようで、は肩の力を抜く。
『…お見知りおきを。』
告げるとさらに鷹は首を傾げた。そもそも裂け谷で鷹を扱う者はあまりいないので、にとっては初めて間近で見る類の生き物だ。風に乗るのに適した体は流線形で、しかし厳つく角ばっている。濡れたような灰色は高貴の色だ。風切り羽の色は暗く、繰り返された縞の模様。美しく機能的な形。
心臓の前で握った両手の片方をおずおずと伸ばすと、鷹は心得たように嘴をその指先に寄せた。わあ、と子供のように顔を明るくしてレゴラスをは見、クウィンスールはこれでいいですねとでも言うように得意げな顔で彼を見る。その一人と一匹の様子に、思わず笑いがこみあげてくるのを禁じえないで、レゴラスは素直に明るい笑い声を上げた。主人に似て気位の高い鳥であるが、概ね気に入られたととって良いのだろう。
撫でても構いませんよと前置きをして、の方にクウィンスールを乗せたままの左腕を突き出すと、レゴラスは器用に片手で手紙を広げた。乙女の腕に鷹は重かろうし、なによりやわ肌にその爪はあんまり鋭いのでいけない。レゴラスからすれば頼りのない細い指先が、そおっと翼を撫でるのを、なんとなく微笑ましい気持ちで目の端に捉えた。手紙の内容は予想の通り至って簡潔。
"いつまでも遊んでいないでさっさと帰れ。"
なにせ唐突に訪れたギルド―ルの一向に唐突について森を出てきた身だ。なにかの遣いでも特別用があったわけでもない。
ただ彼の流浪の王が、次は霧降山脈を超えて裂け谷へ行くつもりだと言うのを聞いたら、思い出したのだ。
優しい手紙を送ってくれる人、こどもというものに触れたことがないから真実"子供"がそういうものなのかはわからないけれど、子供のように素直で、健やかで、いとけないかわいらしい人のこと。穏やかな銀の目、美しい形、水のような声。風に靡く服の陽炎、光に透けて消えてしまいそうな。長い黒髪。それに花冠を載せる。
それはとても、素晴らしい思いつきに思えた。
素直にうらやましいと述べた彼を、旅の王は誘い、彼はそれに喜んで応えた。花冠の思いつきはやはりとてもすてきで、さらには着いた先でおめでたい報せを聞いてから宴だなんだと楽しく時は過ぎて、せっかくだからとオーク狩りにも同行し、とするうちに確かにすっかり長居したらしい。
『ご用はなんでしたか?』
『特に用はないようです。いえ、あんまり私がこちらに長居するので、ご迷惑だから早く帰るようにと。』
素っ気なさが大幅に修正加筆された手紙の内容を知っているのか、クウィンスールが呆れたような目を王子に向けたが、もちろん彼はにこやかなものだ、気にしない。
『すっかりお引き留めしてしまいましたものねぇ。』
悪いことをしたと眉を下げたに、レゴラスはゆっくり首を振る。
『私が好きでいるんですよ。故郷の森と比べてここは静かに穏やかですが、時の歩みはどうやら早いみたいです。時間が経つのがあっという間ですもの!』
『レゴラス様が来られると、楽しいですから、ついご用事はないかとか、もうお帰りならなくて大丈夫かしらとか、お尋ねするのも忘れてしまいます。』
ふふふと二人のエルフはのんびり似たような頬笑みをこぼした。その間でなんとなく、間延びした感じに鷹が鳴く。
『お父上は鷹を飼っておられるのですね。』
『ええ、父は他の方と違う少し珍しい生き物が好きなようなのです。』
『では他にも?』
そうですねえ、と少し考えるようにしてから、ああとレゴラスはにっこり笑みを作った。
『馬の代わりに父は大角鹿に乗っていますよ。』
『…まあ!』
目を丸くしてが声を上げる。
『見たことありますか?』
『いいえ!』
その返事に気を良くしたように、レゴラスが大角鹿が一体どんなものであるのかを説明し始めた。馬より二まわりほど大きくて、分厚い毛皮、平べったい大きな角…その姿を想像しようと、が眉間に力を込める。
王子の帰還には、もう少し時がかかりそうだ。
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