時の流れをまるで感じさせない最後の憩いの館で、しかしは今年月の流れる様を目に見えて感じていた。アラソルン婚礼の報せが届いたのは、つい先日のように思うのだ。だと言うのにもう、その彼に子供が生まれるのだと言う。
もう?と問うとやはり呆れたように、もう三年も経つのだぞ、と人の子に笑われる。その感覚を共有できるのは、やはり星の子ばかりで、彼女はどうしてか、それに少しの孤独を感じる。自らがやはり人とは違うことなど、わかっていた、そのはずの心、仲間を、同胞を、同類を得て、やっと落ち着いたはずのその心が、どこか暗く落ち込むのだ。
人間とは違う。
その歴然とした事実は、随分昔から彼女の前に横たわっていたはずなのに。
『おや、姫君はなにかお悩みだ。』
からかうような声音がして、ぱっと顔をあげると、いつかのように気配を感じさせずグロールフィンデルが立っていた。
ああ、と立ち上がりかけたを大きな手のひらで制して、音もなく静かに彼は隣に腰を下ろす。憩いの館の外れも外れ、石のベンチにぽつりと座っている娘の風情は、どこか萎れた花を思わせた。通りかかったのは偶然だったが、を捜してもいた。常に誰かが、傍でを見ていられるようにと館の主は気を配っていた。
『どうしたのです?』
琥珀色の目がやわらかく覗き込んできたのに、は力なく微笑した。この上(かみ)のエルフに、自らの些細な悩みを打ち明けることは、なぜだか彼に失礼なような気がしたのだ。いったいどれだけの時を生きて、そうして闘いの末一度死に、再び還ってきたこのエルフに、人間の時間を、エルフの孤独を問うことは躊躇われた。どれだけ多くの人間を、そして時には同胞を、見送ってきただろう。そうして自身も見送られ、一度は帰ったその土地から、再び送り還されてここにいる―――。それはには想像もつかない、遥か悠久の孤独に思えた。
ためらいがちに口ごもるをきょとりと見つめて、彼は少し口端を持ち上げる。そうするとこの普段凛々しい武人は、とたん優にやわらかな伶人そのままになる。黄昏時の光の中で、金の髪は中天に輝く太陽の明るさを保っていた。
『…ひとつお話をしてさしあげましょうか。』
私はしがない武人ですから、エレストールや主のようにあまり得意ではないのですが。にこやかにそう言ってグロールフィンデルは宙を見上げた。
『海をご覧になったことはないでしょうね?』
唐突なその言葉にはええと頷く。エルフにとって海を見るということは、遠い故郷へ帰るということとほぼ同義であったからだ。この時代に来る以前、中つ国のあちこちを旅したではあったけれど河口を超えて海を目指したことはなかった。海へ近付く、それだけでどこか、胸が締め付けられるような気がしたからだ。
『私は二度海を渡りました。最初は中つ国へ渡るため、そして二度目は再び体を与えられもう一度中つ国へ渡るため。思えば私の船路は、いつもアマンから中つ国への一方通行ですね。』
それがなんでもないことのように、グロールフィンデルはすこし笑う。不思議なことだ。キリス・ソロナスの山道に、彼の一度目の肉体は埋められているのだ。二度目の肉体の、最初から継続されている魂。それは生き返りとも生まれ変わりとも違う、いうなれば再生であり一度目も二度目も彼に寸分違いない。
『そう、そしてその海にはね、海月という生き物がいますよ。』
『くらげ?』
『ええ、白くて、丸くて、ふわふわと波間に漂う沫のような生き物です。』
ご婦人がたのドレスの裾が、丸く膨らんでいるのに似ていますよとグロールフィンデルはくったくなく笑ってそう言って、『本当にこれは生き物かしらと、木の葉や花に近いのではないかと思うような存在の仕方をしています。』と続ける。
『船べりから覗きこむとね、ぷかりぷかりと波にすべて委ねて浮いていて、少し、気持ちが良さそうだ。』
『…いいですね。』
小さな声でが笑うと、ええと返事がかえった。
『昔、アラソルンがまだここで養育されていた幼い頃、なにか珍しい面白い話をしてくれと言われて困った時にこの話をしましたよ。』
そうしたら、とグロールフィンデルは笑って肩を揺らした。さらさらと金色の髪が肩から落ちて、明るくさんざめく。
『そうしたら、その晩女官たちが困って言うんですよ。彼がお風呂からあがりたがらないんだって。ずうっと膝を抱えて小さく丸くなって、お風呂にぷかぷか浮いているんですって。』
変なことを吹きこまないで下さいって怒られましたよ、とおかしそうに言って彼は優しそうな目をする。
『…アラソルン殿はそのお話を自分の御子にされるかしら。』
たっぷりと穏やかになった沈黙の後で、はそおっとなにか秘密のことを打ち明けるように小さな声で訊ねた。どうでしょうか、彼は海月の話、覚えているでしょうか。と同じように優しい声でグロールフィンデルが返した。
『グロールフィンデル様、海月のこと、詳しく教えてくださいませんか?』
『おや、あなたも海月になりたいなんて言うんじゃないでしょうね?』
意地が悪そうに尋ねられて、まあ、とは笑い声を上げた。
『白いサテンで、海月は作れないかしら?』
『…ああ、水に浮かべればきっとよく似たものができるでしょう。御子が喜ぶ。』
アラソルンは覚えていれば少しばかり恥ずかしがるかもしれないが。
その様子を思い浮かべて、二人揃って笑みをこぼす。
『後で図書室に画がないか探してみましょうか。』
そう朗らかに提案するグロールフィンデルに、ちょうど西日が窓から射し込んで髪が金の冠を被ったようだ。は一瞬その華に喩えられる髪に見惚れる。太陽から白く眩く立ち昇る炎の金。きらきらと光を散らすそれに、ふと似たようなイメージが被さった。
よく似た景色、けれどもあの方の、金とは違う。
ふうっと心が、どこか遠くへ遠ざかる感覚。気持ちの良い風が首元を撫でていくような。麦穂の海の金色、森に落ちる木漏れ日の金色、同じ太陽の色でもどこかが違う。もっとあたたかな、地上に触れた陽の光、その色。
銀の目をが細めたのに気付いたろうか。
グロールフィンデルがおかしそうに首を傾げた。
『さっきとは違うこと、考えていますね。』
彼の瞳。光に透かした緑柱石―――ではない。その目の琥珀が、ふいにを、今、ここ、に引き戻した。
『え?』
『なんだか優しい顔、していましたよ。』
『…さっきは違いましたか?』
『この世の終わり、みたいな顔をしていましたね。』
ひどい、とが笑うとグロールフィンデルもやはり笑った。太陽の色をした髪が、同じようにおかしそうに揺れた。
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