は子どもを抱いてひた走っていた。周りをエルフの兵と野伏せたちが囲んではいるがあまりに少ない。
 少なすぎた。
 生まれた子どもを裂け谷に移すその日だ。
 野伏せの集落を出た一行が、オークの群れと遭遇したのはつい先刻の事となる。目立たぬようにと精鋭を揃えこそしたものの少人数で出立したことが悔やまれるほどの、大きな群れだった。それもあって集落への短い道行きを子どもの世話役も兼ねて許されたではあったが、今はエルフの身の軽さを生かして駆けるより他はない。母親はしっかりと、子供を預けた分身軽になった体でエルフとレンジャーたちの足についてきている。
 大切な子供だった。唯一王の血筋を残す、直系の子孫。ヌメノール最後の砦であり、世継であり、希望でもあった。そうと知って襲撃されたわけではないだろうというのが、野伏せたちの見解だった。長くその血筋は隠されて、もはや人間からすらも、滅んだものと思われている。さらには、オーク共がそのように計画的な行動を起こすとはにわかに信じがたい。運が悪かった。そう言う。
 母親は懸命についてくる。しかし遅れれば彼女はたやすく自らの身命もよりも子供の安全をとるだろう。それが母親という生き物なのだろうが、彼女だけではない。多くのものたちが、その子供を守るためであるならば、自らその体をオークの前に投げ出すに違いなかった。
 オークという生き物の恐ろしさ禍々しさに、が触れるのはこれが初めてだった。生まれた時代に純粋な悪は滅びて久しく、剣を穿き旅をすると言っても夜盗相手が主であるから、眠らぬエルフの瞳と身の軽さを持つ彼女にはどうということもなかった。けれど今、この、"とき"は違う。純然たる悪意が、憎悪が、にくしみが、形を持って歩き回りその牙を剥いていた。それは群れをなして人を、村落を、町を襲い、時にたやすく滅ぼした。
 元はエルフだったのだという、そのおぞましい生き物たちの息遣いを近くに感じる。ゆがめられ、貶められ、汚され、そうしてそのことに適応して、堕ちてしまった、かつての星の子。その面影はもはやかけらもなく、別のものといってなんら問題はない。暗黒そのものから産み落とされた恐ろしい色形。

 遠くの戦いの音が、エルフの耳にははっきりと聞こえた。前方を行っていた斥候の野伏たちが、オークだと伝令を飛ばした時には戦闘は始まっていた。進路を真逆に戻し、引き返すにはあまりに集落を離れすぎていた。オークの数はこちらに優に勝る。
 途中まで出迎えに来るはずの上のエルフの武を頼んで、彼らは進路を大きく迂回し、しかし変わらず裂け谷を目指した。姫さまどういたしましょう、と麗しい頬を青ざめさせる侍女たちを励ましながら、の頬もやはり氷のように透き通っていた。
 自らの手にゆだねられているかよわい命の重要性を知っていた。
 この子供自身か、その子供か、その孫かは知れぬ。しかしこの血筋が、の知る”とき”における王たちの遠い祖のひとつであることは間違いないことだった。もしここで、子供の身に何かあれば。
 のしる”過去”も来るべき”未来”も、自身も、光ある世界も、すべてが露と消えることは明白なのだった。
「山道を行こう!」
「いや、女の足ではすぐにも追いつかれる。」
「走れます、遅れればお捨て置きください。」
 少しでも子供に安全な道をと母親が必死さを顔ににじませて訴える。そこに悲壮な決意を見て取ってエルフたちは知らず顔を見合わせた。
「なに、女性の一人くらい私が運びましょう。」
 つかず離れずの隣を走っていたエルフの兵が優しく苦笑する。
「やつら、まったくなんだってこんな大群でいるんだ。」
「鳥に託を頼んだ。グロールフィンデル様のお耳に入れば、そう遠くには折られないはずだ。すぐにも援軍が来よう。」
「要は子供と姫を守れればよいのだ。」
 守られるべき対象のなかに自分が勘定されていると知って、は絶望にも似た怖気を覚えた。元は姫などでもなんでもない。招かれざる異邦人であるのだ。ぞっとした。
「たたかいます!」
 とっさに叫ばれた言葉に、男たちは目を丸くする。
「頼もしいことだ。」
「ならば姫には子供と奥方を頼もう。」
 それはもちろんやさしい大人から子供へ手渡される言葉そのもので、は駆けながら顔を赤くする。馬鹿なことを言った自覚があった。
 戦いの音が近づいてくる。
「…近いな、」
「おお、鳥です。帰ってきた。」
「金華公とはまだ少し離れているようです…しかしこのまま徒に駆けるより、動かぬほうが賢明かもしれませんね。数は多いとはいえまだ日もあります。オーク一頭一頭の強さなどたかが知れている。」
 エルフらしい頼もしい言葉ではあったが、それはもちろん、彼らの耳がすぐ間近に近づきつつある脅威を敏感に感じ取っているからだった。このまま駆けても追いつかれるという確信がある。
「近くに岩穴が。」
 周辺の地形を熟知した野伏せのその一言に目だけで男たちは頷きあう。それだけでどうも、なにか決めたらしかった。
「お前にはもう一働きしてもらわねば。」
 再び鳥が、エルフの手から放たれる。羽ばたくしぐさが、いやにスロウにの目に残った。
「さあ、お早く。」
 促されながら、は一度、気丈な母親である人の娘を見る。青ざめたその顔は、しかしよりもよほど年を経た頼もしいものに見えた。



30.war
20131003/