「無事か!」
エルフの兵一人を残して、後の男は全員岩穴の外へ出て行ってしまった。入れ替わりに飛びこんできたのはアラソルンとロヴェリオンで、軽いものばかりとはいえわずかとは言えぬ怪我を負っているらしかった。
「殿!」
「橋向こうは塞がれている…やつらゴンドールの境あたりから討伐の手を逃れて大群で流れてきたのだ。」
手当てを、と慌てふためく女たちにすぐ出るからとまじめな顔でロヴェリオンは、「戦いのにおいにこの辺りのオークも集まってきている。」などとさらりと恐ろしいことを口にする。それを苦笑でたしなめながらアラソルンはエルフの足にあわせて駆け続けて座り込んでしまった妻の背をそっとなぜた。あまりにやさしい動作で、しかしまなざしだけは岩穴の外をうかがって鋭い。
「わたくしも戦います。」
先ほどのよりもずっと切迫して聞こえる訴えだった。それに目を丸くして、アラソルンはやはりかすかに口元を緩める。
「それはならん。そなたは子を守らねば。」
われわれ二人の大切な子供だ。頼むよと苦笑したアラソルンの顔はひどく透き通って見るものをはっとさせた。子供を抱えたまま、ギルラインがどこか怪我をしたように顔をゆがめる、やがて小さくはいと言う言葉がその唇からもれて、ほっとしたようにアラソルンが叔父を見上げる。
「では行こう。」
やっと終わったかとでも言うようにケロリと、少し口橋を持ち上げて、ロヴェリオンが腰を上げる。少し遠乗りへでも出かけるような言い様。
「姫、妻と子を頼みます、間違っても、戦おうなどと思われてはいけませんよ。」
「そうだ。奥方に続いて、末姫まで、オークにとられてはエルロンド卿まで海を渡ってしまいかねんからな。」
「笑い事ではありません叔父上。」
まるで普段と変わらぬ軽口と、それに対する親しみのこもった小言は、時と状況をつい忘れさせそうになる。けれども二人の泥と血に汚れた顔だとか、ところどころ破れた服やマント、それらを見ればとてもそうはいかない。なぜ今この状況で、そんな風に笑っていられるのか。そう尋ねるように、愕然と見上げてくるエルフの瞳に、ロヴェリオンは場違いに柔らかい苦笑する。
いつどのような状況にあっても、この姫君の前では飄々と、それこそ風のように、掴みどころのない軽くやわらかな存在でありたかった。勇猛でも黒くも激しくもない、知らぬ間に髪の毛の下をすり抜けて通る、そよ風のようなものでありたかった。いつ止んでも、気づかれることもないような。
は美しい。美しかった。
うつつの夢よりもなお、美しい人。噫違う、そうだ、人ではない。これはエルフ。星の子供。よく似た形して、けれども決して人ではない。人ではないのだ。内側から淡く光り輝いて、人より丈高く、美しく、それはまるでうつつのゆめのよう、遠い星明かり、手の届かぬ光のよう。それなのに目の前で歌い、笑い、微笑みかける。だから愚かな人の子は、時折そのまぼろしに手を伸ばす。その美しさに憬れて、悲しみは見ないふりをして、その指先を伸ばすのだ。そうして美しい、星の子供らを殺す。彼らに悲しみを齎し、その一槌を以てして殺すのだ。
しかしそれすらも、恍惚の夢。この美しい生き物が、自分を失った、その悲しみのあまり死んでくれると言うのなら。
けれどもそれは、あまりに業が深いことに、彼には思える。
水面の月に手を伸ばせばそれは歪んで千々に乱れて砕けるだろうし、虹はどれだけ追いかけても追いかけても掴むことはできない。どんなに天に近い峰に昇っても雲を掻き集めて乗ることはできないし、野に咲き誇る花は摘めばやがて萎れてしまう。そういうものだと、思っている。
だから手を伸ばそうとも思わない。触れようとも思わない。
それは景色と同じ。触れることはできないが、眺めて目に美しく、心に優しいもの。
そう思っている。
だから。
これが最期かもしれないのなら。この世で一等美しい、うつつの夢を見よう。
そう思う。
「いいな、出るなよ。ここから。絶対に。」
行かないでと美しい唇がそう戦慄くのを眺めながら、どうしてか、彼はどこか満足している自分をさえ感じていた。
この人は不死のさだめに生まれていながら、死を知っている。またマンドスの館で会えるからと寂しく笑って見送ることはない。この人は悲しみで死ぬ種族の癖に、人が、人間が死ぬとはどういうことかを知っている。
だからきっと彼の死を、正しく理解して泣いてくれるだろう。彼が死んだ瞬間にその“死”の意味を知って絶望するのではなく。
遠くで険しい、戦いの声が彼を呼んだ。
そちらを振り返る彼を見上げながら、その人の目は縋るように見開かれている。彼はいつもと変わらぬように苦笑した。夜空をそのまま溶かして紡いだような黒髪に初めて少し触れる。ひび割れた指先はそのまま子供にするようにその頭を撫ぜた。
お別れだ。
『彼を頼む。』
彼女の国の言葉で言った。
我々の一族に大切な子供だ、と付け加えて、彼はその手を離した。小さな子供を抱えたままで、ついには首を横に振りながら泣き始める。泥に塗れてもやはりその涙の粒すら美しかった。星の滴だ。
もう一度だけ、手を伸ばした。頬に落ちたそれを拭うと、白い頬に彼の指が土色の跡を残した。大丈夫、清潔なハンカチで拭うまでもない、すぐにとれる。悲しみも、けがれも、すぐにこの人からは逃げていく。彼は微笑する。あんまりが泣くからだ。
馬鹿だな、。子供のようだ。そうしてまるで、人の子のよう。エルフのくせに、なんてこと。
そんなあなたがこのましかった。
どうぞ世の末までも健やかに、美しく。いつまでも、生きて。
「…Namarie.Alphlorien vanimelda.」
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