『エステル、エステル、転びますよ!』
優しい声が困ったように自分だけを見る時が好きで、彼はときどき、小さな言いつけを守らずにかくれんぼしたり走ったりした。幼子のはしゃぐ声が静かな谷中にこだましていて、それを誰もがほほえましく眺めては耳を澄ませている。彼らにとってはその幼子と同じくらい、おさない存在がその面倒を見ようと懸命になっているのが、くすりと目と目を合わせてわらいあいたくなるほどにかわいらしいので。
『は走るのが遅いですね!』
『エステルが早いのです。』
ほう、と一息ついて目を丸くする美しい人を見上げて、子供は無邪気に笑い声をあげる。母親にほめられるのと同じくらいに、この人に感心されるのはうれしい。
『さあ、そろそろ帰らなくては。』
もう?と残念そうに眉を下げた子供に、はしゃがみこむと目を合わせた。長い黒髪が地面に水のように垂れた。すぐ近くに下りてきた星の瞳を少し見上げながら、子供はなんとも、誇らしいような気がする。誰がなんと言っても今このときだけは、この美しい人は確かに自分だけのものだもの。
彼は物心ついたときからエルフたちに囲まれて育った。特にそれを不思議とも思わずに五つの今日まで生きてきて、彼の毎日は健やかに美しく、夢のような世界の中にあった。
エルフ。人間とは違う美しい生き物たち。誰に言われるともなく、自分がそれらとは違うのだということを感覚的に知っていた。エルフたちはみな彼に優しく、しかしいつもどこか、彼をすかして何か遠くを見ているようなときがあった。そういう時彼は自分が真昼の幽霊のようにここにいない存在になってしまったような気がする。けれどもこの美しいエルフは、彼のことを悲しげであっても確かにまっすぐと見るから、夢のような美しい世界の中それでもここにいると知ることができた。
彼の毎日は思い起こせる限りおおむねいつでも穏やかで楽しいものだった。母親はいつも穏やかに彼のやることをすべて見守っている。エルロンド卿の紐解いてくれる分厚い本の束も、厳しい勉強の師であるエレストールも(名前がよく似ていますねと子供がうれしそうに言うと、そのエルフはたいていわかりにくく照れるのだった)、グロールフィンデルに聞く武勇伝だとか、双子の王子に剣の稽古をつけてもらったり、それから夜眠る前と起きたときに、アルフローリエンにおはようとおやすみなさいを言うこと。美しいものとやさしいものに囲まれて、彼はしあわせだった。けれども時折、どうしようもなくさみしくなるのだった。彼の周りには、もちろん彼と同年代の存在は存在するはずもなかったし、年齢という概念を飛び越えた生き物たちばかりであったから、彼の話し方は自然と大人びて、それでいてエルフの言葉を流暢に話した。むしろ人々の言語である西方共通語のほうが、たどたどしかったといってよい。そうして知らないうちに、人から離れ、しかしエルフにもなりきれぬ子供は、やはり我知らず孤独であった。
そういう時、アルフローリエンはいつも、小さな子供に寄り添っていた。この人が優しくそばについていてくれると、子供はずいぶんと安らいで、なにも恐ろしいことなど内容に思えるのだった。
しかしその逆に、ときおりこのエルフの姫は、ずいぶんと頼りなく、寂しげな目をするので、そういう時、エステルは自分がうんとしっかりしなくてはならないような気持ちになる。自分の理由の知れない心細さなどうっかり頭の外に放り出すくらい、彼女は五つの子供の目にすらも儚く見える。
だからどうぞどこにもいかないでという代わりのように、子供はよく小さなもみじの手のひらを伸ばした。やわらかいその手のひらを、ほっそりと美しいその人の、少し冷たい手のひらで包まれると、清らかな水に手を浸したように、心ごと透き通って心持がストンと落ち着くのだった。
はなれないように、はぐれないように。
あぶないことなどひとつもないように。
指先が繋がっている間、子供はありとあらゆるものから守られているような気がした。おそろしいこともかなしいこともさびしいことも、ひとつもありませんよと、高いところで銀の瞳がいつも囁いているから。
小さな人の幼子と、若いエルフの娘が手をつないでたそがれの森を歩いている。やがて遠くから聞こえてきた迎えの足音に少し早く秘め気味が気がついて、『お兄様たちです。』にっこり微笑みかけると、はやく行きましょうと、先ほどまで帰るのを渋っていたのも忘れて子供が駆け出した。
手をつないだまま、駆け出した足音を捕らえて、やはり双子の王子も朗らかな笑い声をたてると足を速めた。
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