ガサリ、とわざとらしく緑の梢を揺らして、金の髪が顔を出した。
『こんにちは、エステル。』
 ヒラと緑葉の降ってきたのを見上げた先に現れた親しみ深い優しい微笑にあっと声を上げて、子供が歓声を上げる。
『レゴラス!』
 その隣で同じように目を輝かせて、が見上げた。『こんにちは、レゴラス様。』 小さな人間の子供と、裂け谷の末の姫君は、木陰に並んで絵のついた本を広げているところだった。明るい緑の芝生の上に、色とりどりの紙が広がって、なんだかご婦人たちが今日のドレスはどうしようかしらと敷布の上にありったけの着物を広げるのに少し様子が似ている。
『何を読んでいるのです?』
 新緑の瞳を日中の光にきらめかせながら、森の王子が二人の隣に腰を下ろした。時折気まぐれに裂け谷をおとなうこの若いエルフに、子供はずいぶん懐いていた。
 ひとつはこのエルフが比較的年若く、まだ悲しみをよく知らなかったからだったし、ひとつは生来の明るく朗らかな性格もあったろう。とかく裂け谷の黒髪エルフたちは、哲学するエルフである。それに対して太陽のような金の髪の彼らは、森に根付き歌をうたい、したたかに、強く、生きている。快活に声を上げて笑うエルフというのが、エルフに囲まれて暮らすエステルの目にも珍しく見えた。あまり生命の気配を感じさせぬ養育者たちよりも、自分と同じ人間に近いもののように、幼心に感じているのかも知れぬ。それから重要な要素のひとつに、彼の弓矢の腕前がこの裂け谷のどんな勇者よりも群を抜いてすばらしいことと、と同じように、目の前の子供自身をのみ見つめて話をすることがある。

 レゴラスがやってくるたびに、エステルは勇敢なベレグの物語をねだっては、決まって最後に同じ質問をした。
『レゴラスとベレグと、どちらが強いのです?』
 その問いを投げかけられる度、おやおやとレゴラスととは目を丸くして視線を合わせ、片方は楽しそうに、もう片方は照れくさそうに、少し困ったように微笑するのだった。
 まだ小さいエステルには、弓の弦を引くのも大変なことで、それで的を狙って矢を放つというのは、もっと難儀なことだった。とまっている的ならまだいいけれど、レゴラスのように、木の葉や、獣や、そんな風に動いているものを射るなどというのは、途方もなくすごいことに思われたのだ。
 そう言うと、決まって必ず双子の王子たちが、『我々だって弓を使える。』『なかなかのものですよ。』 と張り切って張り合いだすのだけれど、子供の無邪気な、『ではエルラダンとエルロヒアは、レゴラスより弓がお上手なのですか?』という問いに、明後日の方向を見やるしかないのもお決まりだった。武勇に優れた裂け谷の王子たちではあったけれど、弓矢の腕前、ただそれだけで競うとなると、どうしても闇の森の王子に軍配が上がる。やっぱりレゴラスが強い、と屈託なく感心するエステルに、なんとなく遣る瀬無いような気分になる兄たちを慰めるのも、やはりお決まりのの役目だった。

 レゴラス自身、エステルを気に入ったらしく、前よりも裂け谷を訪れる機会が増えたように思う。なによりドゥーネダインの集落からの移動の際に、運悪くオークの群れに遭遇したために子供の父親を含め多くの犠牲が出た戦いのさなかに、が放り込まれていたと聞いて以来、彼女の保護者たちと同じくらいに、彼もまたの心身を気にかけているらしかった。変わらず続けられている手紙のやりとりのなかに、安否を気遣う言葉が増えた。
 念のためにとロスローリエンへの外出すらも禁じられたは、裂け谷に篭りっ放しで退屈してはいないかとも、こののびやかなエルフは心配をしているらしい。当のは日々健やかに成長していく人の子とのめまぐるしい日々にかかりきりで、そこまでこの谷を出れぬことを苦にしていないことが微笑ましかった。
 友人たちの大切な子供だからと、初めに言ったのまなざしは、ずいぶん優しく、さみしくなって、強くもなったとレゴラスは思う。オークの群れに囲まれて、親しい人たちを失って、どんなにかなしい思いをしただろう。

『古い絵本なのですが、ばらばらになってしまっているのです。』
 ふとさまざまな考えをめぐらせていたレゴラスの耳を、無邪気な子供の声が打った。
と順番に、これを綴じ直せないかと並べ替えていたところです。』
『物語ではないようで、図鑑のようなものなのでしょうか…おかげで順番がさっぱりで。』
 ねえと顔を見合わせて、姉弟のようにエルフの姫君と人間の子供とがおかしそうに笑うので、レゴラスはどれと草の上から一枚、分厚い紙を取り上げた。美しい装飾の施された花のような文字が並び、『ああ、これは。』
 合点がいったという声の響きに、とエステルがぱっと顔を輝かせる。
 まったくあなた方と言ったら、わかりやすくって。
 これは遠い昔の歌物語ですよと答えたら、きっと歌をせがまれるに違いないと考えながら、レゴラスもやはり明るく笑みを浮かべたのだった。



33.ancient song
20131010/