お話をしてください、という小さな声に呼び止められて、は一度背にした子供を振り返った。
『眠れないのですか。』
『いいえ。』
 真っ白な毛布を口元まで手繰りよせながら、子供はにっこりと笑みを見せると、内緒話のように声を潜めた。
『眠りたくないのです。』
 その答えに、まあ、と目を丸くして、はベッドの端に腰を下ろした。近くなった距離にくすくすと笑い声を漏らしながら、子供がまぁるい目玉で見上げてくる。その額に、真っ白な指先で包むように手のひらを 乗せてやりながら、は『なぜ?』と優しく言葉を発した。
『あのね、眠ると早く明日がくるでしょう?』
 それは、少し思いもよらない答えで、は銀の目を見開いた。
『…そうかもしれません。』
『眠らなくても明日は来るけれど、眠らないほうがきっと明日が来るのは遅いのじゃないかと思ったのです。』
 エステルは頭がいいのね、とつぶやいて、は穏やかに瞼を伏せる。何かつらいことがあったろうか。見やった子供の顔からは、恐れや不安、悲しみは見つけられず、ただただ純粋に、そう考えているらしいことに内心ほっと息を吐く。
『明日が来るのがいやなのですか?』
『そういうわけでは、ないのですけれど。』
 少し、言い淀む子供の頭に手を乗せて、はそうっと微笑む。
『眠らないと大きくなれませんよ。』
『大きく?』
 老いを知らないエルフたちのなかで、この子供が正しく"大きく"成長する、その意味を理解できている ものだろうか。
『ええ。エルロンド様やラダンにロヒアのお兄様やグロールフィンデル様やレゴラス様のように。』
 私もあんなに"大きく"なるのですか、と目を丸くして、子供が言う。
『ええ…きっと立派な殿方におなりです。ですからあなたは眠らなくては。』
 その答えに頬を明るく輝かせ、けれども子供は小さく口を尖らせる。
『でも、明日になったらレゴラスは帰ってしまうでしょう?』
 ああ、とは笑って、それからこどもの額を撫ぜた。
『また、すぐ来てくださいますよ。』
『また、っていつです?』
 その素直な問いかけは、どうしてもの胸を突いた。
 このこどもはいったい理解しているだろうか。また。その約束を人間とかわすのに、どんなにかエルフが心を砕き、 悲しみは見ないふりをして、それを守っているのかを。また、と交わすその度に、どんなにかそのいつかを希っているのかを。
『ひとつ寝て、ふたつ寝て、みっつ寝て、それからエステルの背が今より少し伸びるころにはきっと。』
 この子供は理解しているだろうか。きっと何度目かの、また、の後、その背が伸び、肩は逞しく、声低く立派な殿方の形をして、このこどもがエルフのこと、人間のこと、そうして自分たちの一族のこと、世界のことを正しく把握するその頃にも、決して今自分を囲む生き物たちの容姿の衰えぬこと、自分とは違うこと。そうして世界が、暗いこと。それでもこの子供は、厭うことも恐れることもせずに、また、と言ってくれるだろうか。
『それにエステルが大きくなれば、自分からお会いしに行くことができますよ。』
『私が?自分で?』
 思いがけないことであったように子供が目を見開いた。
『ええ、馬に乗って、霧降山脈を越えて。大きくなったらどこへだって行けます。』
 そうだ。この子供は、成長して、きっとどこへでも駆けていくだろう。エルフの希望の小さな小石。その子供。噫けれど、そうではない。それだけではない。にとって彼は、ただ大切な、友人の子供だった。たいせつな子供。のこされた愛、たくされた希望。ただのこども。どうか健やかに、闇に怯えることなく育ってほしい。
 だのに世界は、暗かった。
 という、"また"、その約束のずっとずっと先から来た存在が、気軽に出歩くことは叶わなかった。言えばこの世は、の来た"明日"からはずっと遥かに遠ざかっていて、延長線上にあるかどうかすらも怪しい。それなのに、本来ならば交わるはずのなかった人々と、は暮らし、家族になって、生きている。
 生きている。
 はもう、この世界への、共に過ごし、生きる人々への、親愛の、憧憬の思いを留めることができずにいる。
 遠い世界で、 たったひとりだった。優しい家族に恵まれて、けれども誰もが、を残して去った。人の胎から生まれながら、がエルフだったので。誰もが年月の流れに沿って老い、だけが残された。生まれたことが、間違いだった。ずっとその思いを拭い去ることができなかった。当て所なく彷徨った。神話の、御伽噺の中にまだ見ぬ同胞の姿を追った。
 そうしてはここにいた。生きていた。生きている。家族になろうとそう言ってくれる、同じ生き物がいた。 不安定な存在であるに、同じように光る指先を伸ばしてくれた。すべてが善意と好意から、差し出されたものだけではない。けれども確かに、そこに善意も好意もあるのだ。そうしてそれ以上に、が彼らを好いていた。
 わたくしはこのひとたちをあいしている。
 このこどもを見ていると、はひしひしとそう思い知らされるのだ。遠い家族を愛するように、血肉を分けた親兄弟 を思うのど同等、あるいはそれ以上に―――この人たちを愛している。
 その苦しみ、悲しみに目を閉じて見ぬふりなどできない。この優しく美しい人々が、こうふくであるように。そう願うことが罪なように思っていた。
 "そうしていつまでも幸せに暮らしましたとさ。"
 めでたしめでたしのその後に生まれ、 のうのうと生きて、なぜかここへ来た。その自分には、物語の最後の幸福を紡ぐことに、手出しも、なにも、できない。 してはならないのだとそう思い定めていた。
 口を塞ぎ、心に秘めよ。その結末、その鍵、その物語の確信に触れてはならない。そうであることすらも、悟らせてはならない。それがこの時間の、この世界の、"善き"賢者たちが定めた共通のルールだ。けれどもは生き物だった。 願うことは止められない。彼らを愛している。なんの因果か遥かな時間を遡って、それでもここに生きている。
 同じ世界に。
 同じエルフの血、エルフの目、エルフの耳、同じ姿、同じ声、同じ輝きを宿して。

はいかないのですか?』
『わたくしは、』
 屈託なくこどもが尋ねた。
 いつかこの子どもが大きくなったその時、彼が牽く馬に乗って、この世界を見て回ることができたなら。同じように肩を並べ、共に歩き、同じものを見て、たくさんの人を訪ねて。
 それはなんと美しい夢だろうと、は思うのだ。
 けれどもまだ、物語の"鍵"も、真の闇の"目覚め"も、訪れてはいない。それがこの子どもの生きている内に起こることなのか、それともこの子どもの、そのこどもの、そのずっと先の子どもの時代に起きることなのかはわからない。少しでも この仮初の平和を長引かせたい、そう思うのは罪だろうか。
 けれどもはもう決めた。親しい友を失った。そうしてやっと、自分もここに生きていることに気が付いたのだ。物語を頁を捲っているのはではない。もそこに、 その文字の中に、生きている。だから。それが罪でも構わない。誰かの幸せを願うことが、過ちであるのなら、それでも構わない。
 いつか"今"息を潜めている闇は目覚め、物語の"鍵"が見出される。そして"いつか"訪れる幸福な結末の後―――それでは遅いのだ。今、まだ、ここに、結末も、序章すらも、訪れてはいないのだから。
 だからは、もうずっとここにいようと思う。ここで、口を噤み、知っている"過去"すべてに蓋をして、守る。 の胸の中にだけ存在する、"今"は"まだ" どこにも"ない"物語。それに誰にも、指一本たりとも触れさせない。たったそれだけのことで、多くを守ることができるのだと、はやっと気が付いた。そうしてここで、与えられただけの優しさを、何百倍 にもして還したかった。ここにいる人々、を知る人すべて。これから出会う人、出会った人のすべてに。

『わたくしはここで、皆さんの来るのを待っています。』
 きっとこれから、たくさんの出会いと別れとを繰り返し、戦いの中に身を投じていく子供。その近い先か、或いはずっと先に、成就されるべき望みのために、傷つきながら、それでも命を繋いでいく。
 この子供が大人になっても、はその身を盾にして庇ってやることも、その剣の代わりに敵を屠ることも、ありと あらゆる悪意を退けることも、本当に知りたいことを教えてやることもできない。先の物語を口にするだけで、未来は死んで しまって、色も形も失くす。ましてやは、力ある魔法使いでも、上のエルフでもない。どうやらエルフらしいというだけのに、 できることはあまりに少なく、そして単純だ。けれどももう迷っても挫けずにいられるような気が、にはする。
 子どもの緑の目が、まっすぐに親愛の情を示してを見上げている。なんの含みも、憂いもない、まっさらな親しみ。

 は子どもの前髪を少し退かすと、その額を撫ぜた。満足そうに子供が笑う。
『おいしいご飯を作って?』
『おいしいご飯を作って。』
 真面目に頷くと、こどもは毛布を鼻の先まで持ち上げて、頭の位置を直した。
 どうやら本格的に、眠りにつく体勢だ。
『明日は早く起こしてくださいね。』
『ええ、わかりました。』
 おやすみなさい。囁く声に同じように柔らかい返事がかえる。
、朝一緒にレゴラスを見送りに行ってくれる?』
 もちろんと返す自分の声が、子どもの耳にどんなに美しく鳴るのか、は知らない。




34.good night
20140106/