その人はよく陽の当たるポーチに腰掛けて庭を見つめていた。正確にはそこで一心に小さな剣を振るう小さな子供を。ギルライン、とそう控えめに呼びかけられて、その人は振り返る。まだ若いというのに、谷間にかかる霧のように灰銀の髪が、にぶく光を反射した。
「姫、」
口元に浮かぶかすかな微笑みに、ほっと安堵するように微笑を返して、は首を傾げた。
ああなんてはかなげで、いとけない方かしらと、その幼子のような微笑を見る度にギルラインが思い直すのを、彼女はきっと知らないだろう。初対面のときからどうしてか、祖母よりも年が上のこのエルフに、ギルラインは姉が妹に抱くような親しみを覚えていた。よくその銀の瞳を見れば、自分などよりずっと長く生きて、多くの悲しみを見てきた知恵ある生き物の目だとわかる。しかしそれでも、最初のそれが、間違った感想とも思われない。
そういったとき彼女は、自分の直感を信じるようにしていた。そもそもそれだけではない。まだずいぶんと幼い時分から、時折白昼夢のように齎される閃きにも似た予感は、偶然というにはあまりにも生々しく、遅かれ早かれ彼女の前に展開された。だから彼女は、自分の勘というには鋭すぎる予感と感覚とを信じてもいた。そうしてそれ以上に、運命を信じてもいた。
「エステルをご覧になっていたのですね。」
「ええ。グロールフィンデル様に稽古をつけていただいていたところです。」
「では湯浴みの準備をしておかなくてはなりませんね。」
ふふとわらったに、ええ、と頷きながら彼女は我が子へ視線を戻す。
緑の光の中で、子供は懸命に剣を振っている。時折転がされては立ち上がり、また一心に剣を振る。
あんなに夢中になって。
彼女はかすかに、口端を持ち上げた。それは微笑にはならずに、ただ本当に、顔の筋肉がそう動いただけだった。
まだ幼いが、ところどころがやはり亡くなった夫によく似ている。黒い髪も、利発そうな目もそのままだ。何れ大きく立派に育って、そうしてこの仮初の巣から飛び立っていく。そのときのことが、目に見えるようだ。いいや、実際、その目にはその"時"のことが、ありありと見えているのだった。
子供はもっと、ずっと、誰よりも強く、強くならなければならない。
そうでなければ生き残れない。
自分の子供が、誰よりも険しい戦いの渦中に放り込まれることになるのだという確信が、彼女にはあった。そうしてやはり、そのことを信じてもいた。希望という、仮初めの名を授かった子供。そのことが彼女には、皮肉に思われて仕方がないのだった。希望と名づけられておきながら、その子供は、先の見えぬ、到底勝ち目のない戦いへ身を投じていく。その結末は、彼女の目には見えない。ただそのかわいいわが子が、暗闇の中で、戦いに傷つき、苦しむことだけは知っている。大切な息子。あの人のたった一人の生き証。たったひとつの形見。その幸福と安寧だけを願いたいというのに、それらの明かりは、たったのひとつの彼の頭上にないように彼女には見えるのだった。"ぜつぼう"を見るようだ、とすら思う。それなのに息子に、夫とも違う、偉大な王たちに連なる相が見えてもいるので、何も知らさず、戦う術すらも与えずに、何も知らぬ木偶のように、エルフたちの庇護だけに縋ってこの子供が一生を終えるはずのないことも知っている。ただその終わりだけが、どうしても、見えない。
遠い先祖の血を濃く引いて、エルフの先見に近いヴィジョンを見る彼女の目は、果てのない暗闇、その中をさ迷う我が子一点に注がれていた。
それがどうしてか、こんなにも苦しい。
希望。戦いの果てに傷つき、勝利することが望まれている子供。それがいったいなんになるだろう。それはいったい、誰のための希望だろうかと、彼女はもうずっと考えている。考え続けている。
少なくとも"普通"の母親であることを望めない彼女には、"普通"の母親らしい望みは、一切残されていないように思えるのだった。我が子に戦い、傷つき、多くのものを失ってなお、なにを得てほしいと望むものか。生きて。それだけのことを願うことですら、こんなにも難しく、叶う望みのないことのように思えるのに。
エルフに似た眼差しをふと曇らせて、我が子を見つめている母親を見やって、は伏せかけた目蓋を震わせる。決して言葉にはされないが目に見える母親の憂いも、不安も、当然のことのように思えた。だからこそ、誰の前でも気丈に振舞うこの勇敢な女の人の心を、少しでも和らげられればと思わずにはいられない。彼女が何を恐れ、何と戦い、何を見つめているのかを―――どんなにか願っても、は決して知りえなかった。誰とも彼女が、その孤独を分かち合おうとしなかったから。けれどもなにかを堪えて何かと戦って傷つく姿が、目に見えるように思えた。すぐ隣にいても彼女は、ひどく遠く、どこかこの世のものではないようだった。敬虔な奉教人のように、何かを胸に念じている。
ふいに子供が、足を滑らせて転んだ。
あ、と思わず同時に声に出して、それから二人は、内緒話のばれた子供がするようにこっそりと顔を見合わせて、それから少し、微笑みあう。子供はすぐに、起き上がったようだ。元気な声が、聞こえてくる。
「過保護になって、いけませんね。」
「ええ、本当に。」
二人は罰が悪そうに、けれども共犯者のように愉快げに肩を竦めた。
「姫は過保護の筆頭かと思いましたよ。」
少し、悪戯好きな少女のように歯を見せてギルラインがわらう。
「もちろんです。よくそれで父にも嗜められます。」
大真面目に握りこぶしを作ってがそう力説して、それからぷーっとお互いに噴き出した。
「さあさあ、お茶にしましょう。、付き合ってくださいますか?」
「ええ、ぜひ。エステルとギルラインが来てくださったおかげで、"ちゃんとした"お食事が増えてわたくしはうれしい。」
ふふと微笑みあって、二人は庭に背を向けた。まだ子供の元気な声が、二人の耳に聞こえている。
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