夢も見ず眠っていた。
ふと肌寒さを感じて、目蓋を持ち上げる。そよ、と風が冷えた頬を撫でて通る。日は翳り、黄昏の気配が色濃く森に満ちていた。眠ってしまったのか、と自覚しながら、それでもは地面に伏したままでいた。
いつかの花畑だ。
人気のない花畑に風は吹いて、なんだかふと、世界中から置いてきぼりにされたような、ぽつりとさみしい気分になる。
ここへきたばかりの頃、よくそうして昔々から抱えていたはずの孤独をよく持て余した。
思い出して、ふと苦笑が浮かぶ。
それらの不安が、消滅してしまったことは、一度だってなかった。忘れているときでさえも、それはひたりとすぐそば、自身の背中にあったからだ。同じエルフという種族と、その家族と、多くの友人を得ても、がこの時代のものではないという事実はやはり、彼女だけを他と隔てた。
生まれた場所で、エルフは自分の他にひとりもなく、人間たちのなかに、紛れて流離っていたあの頃―――。
思い出して、ははっとした。
目蓋を閉じて、眠っていた?
永く忘れていたことだった。幼い頃、まだ自らが、父親母親、弟たちとは違うのだということを知らずにいた頃、自分が"人間"だと、信じて疑いもしなかった頃だ。彼女は人と同じように、目を閉じて眠った。しかしいつのころからか、眠らなくなった。目を開き、星を眺めて、夜空に心を憩わせながら、眠るようになった。眠りに落ちる目の中には常に明るい星の輝きがあった。目蓋の裏のやわらかい暗闇を、久しく忘れていた。
そっと口元に指先を持っていく。
寄り添って眠っている牝鹿の、ごわごわと固い毛並みをそっと撫ぜる。
あたたかい。
どうしてかそのことに無性にほっとして、は息を吐いた。―――帰らなくては。
エステルが今日は一日剣術と学問の授業だと言うので、ぽかんと午後中暇になった。
この子どもがここへ来る前、自分はいったいどうやって膨大な日々を"消費"していたのかと呆れてしまい、しかし事実空いてしまったこの時間をどうしたものかしら。外は誘うようないい天気で、足の赴くままに歩き出した。芽吹く若木の枝先に覗く灰色の新芽や、馴染みの小鳥たちに挨拶をしながら歩くと、どれもみな嬉しそうにした。ひさしぶりだ、と言って。それにが目を丸くすると、みなおかしそうにくすくすと、だっていつも人の子どもに夢中なんですもの、と笑った。『そんなにですか?』問えばもちろんと返事があって、は恥ずかしげに首を傾げる。
ああ、そんなにも、わかりやすかったかしら。
あなたがたのこと、ないがしろにしたわけではないのです、と言いたくて、けれども結果的にそうなったのだから言い訳がましい気がして黙ってしまう。ごめんなさい、と囁きかけたくちびるを遮って、ひときわ陽気な囀りが耳を打つ。顔を上げると、赤いチョッキの紳士が、ちょこんと目の先の枝に止まってかわいらしく目をくりくりとさせていた。
さあ、でもきょうはわれわれとあそんでくださるのでしょう、と言って、いつの間にこんな立派になったのか、いつかの牝鹿がの隣に並ぶと、駒鳥も降りてきてその肩に止まった。おはなばたけにまいりましょう。そう囀られて、ええ、と頷く。二匹と一人のために、森はそっと道を開いて、木々たちが挨拶をする。ひとつひとつに返事をかえしながら歩くと、すぐにも一面の花の園に辿り着く。
おはなのかんむりがほしいと野兎の親子にせがまれてせっせと編んだ。編む端から子供のほうがおいしいねえと花を食むのにはわらってしまった。わたくしたちもと次々にせがまれて、順番だよ、と駒鳥。おかげでずいぶんたくさん編む羽目になってしまって、だいじょうぶかしらと見下ろした花たちは楽しげに笑ってばかりなので少しばかりほっとする。
それからぽかぽかとして、いいてんき。
誰かが呟いて、みなころりころりと横になった。
あなたも、と誰かが言って、つられて土の上に横になった。太陽に暖められた土の、日向のにおい。花がすぐ目の前で揺れて、きもちのいい風が吹いている。人であった頃の真似をして、ふと思い立って目蓋を伏せてみる。日光はわずかな隙間からも漏れこんで、目蓋の裏を赤く照らした。みなの小さな寝息が聞こえる。
人間の真似事だ。
ふふ、と少し笑って、なおも目を閉じる。
懐かしくらやみだ。ふとチカリと、ずっと目蓋の奥の方で、小さく黄金色が一瞬光って――――なにか、<Ash nazg…>地の底から響く声だ。
眠っていた。
もう一度思い返して、少し震える吐息を吐いた。
目を瞑って、人と同じように。
不思議な感覚だった。視界が明るくない眠りは、今思い返してみると恐ろしいような気もした。なにも見ず、自分の内側のくらやみだけ、眺めて眠っていた。夢すらも見なかった。エルフにとってそもそも夢とは、目を開いて見るものだ。くらやみ。
日も落ちたので、みな帰ったようだった。鹿と駒鳥だけ、に寄り添っている。
おこしましょうか?と首を傾げる駒鳥に、もう少しだけ、と鹿の毛並みを撫ぜてやる。昔は柔らかく、木漏れ日の模様した毛並みをしていた。少し目を離した隙に、こんなに大きく立派になっている。あの子供も、と思いやって首を振る。人間の歩みは、獣たちよりはまだ遅い。
先のことばかり考えるのはやめようと思い、その"先"が"かつて"のことでもあることに、時折途方もない気がして足が竦む。
敏感にの不安を感じ取ったように、牝鹿が長い睫を震わせた。ああ、ずいぶんねたのですね。おそくなるとおこられますよ。みな心配します。
『…帰りましょうか。』
答えてふと、泣きたいように思う。帰るうちがあること。
それが震えるほどうれしいのに、どうしてか苦しい。
かつて帰る家は、他にあった。ブルイネンを下り、エレギオンのわずかに北、古い森が姿を残すその一角。古城の入り口のアーチに絡む蔓ばらの色とりどり、その上の剥げかけた古い印。古びた二つ並んだ星の模様。その下に立つ馬上の騎士。
噫こんなにも、鮮明だ。覚えている。
自分の中に、やはり人間の要素が残っているのなら。それだけ取り出して、人の形にして、あの家に、あの時に、帰してやりたいと思う。どこへ行っていたのと泣いて怒りながら出迎える家族に、丸い耳の娘がごめんなさいと泣きながらその腕に飛び込む。そうならばどんなにか、父も、母も、しあわせでいられたろう。けれどもの中の"人間"は、ほとんどエルフのの中に、ほんのわずかに沈んでいた。それだけを取り出すことも、無くすことも、消すこともできない。あるいはエルフの部分だけを取り出して、あとの人間はすべて捨てて―――そうして"今"、帰りを待つ人たちのところへ飛んで帰る。遅かったのですね、心配したのですよ、今日はどちらへ、アルフローリエン?
どちらもこんなに優しくて、たいせつで、だからこそ切ない。中途半端な存在。どちらでもあり、どちらでもない自分。そうではないと、は徐々に気が付いている。どちらも捨てられないから、どちらにもなりきれない。
空にはかすかな三日月が出ていた。
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