『ミスランディア、なんだか楽しそうですね。』
そう子供に問いかけられて、魔法使いはおやと片方眉を上げた。ぷかりと一度煙を吐いて、パイプの先を指でこする。
『そう見えるかな?』
『ええ、とっても。』
お髭の先がさっきから楽しそうですもの、と言われて魔法使いは愉快そうに笑い声を上げる。それは気づかなかった、とそう言って。
春の初めの風に吹かれて、長い銀の髭の先が、たしかに気持ちよさそうにくつろいで見える。鳥の歌う声がのびやかだ。黄昏の気配漂う裂け谷にも訪れた春の陽射しはあたたかで、森の葉に白く光を幾重にも乱反射している。
『何のお話ですか?』
手づから茶を淹れてきた姫君が、盆を置きながらおっとりと首を傾げた。
『ミスランディアがなんだか楽しそうなものですから。』
『まあ、今度はなにをなさるおつもりなのです?』
『なんじゃ、人聞きが悪いな。』
ちっとも気を悪くなんてしていないように、魔法使いは肩を竦めた。もちろん言われ慣れているのだし、それ以上にそんなことは根も葉もない噂だと考えているのだ。なにぶん彼は、自らが“厄介ごとの運び屋”だなどとは、おそらくこれっぽっちも考えてはいない。
『頼まれごとじゃ。それもちょいとばかり厄介ではあるが…それよりもずっと厄介な用事のついでには問題なかろうて。』
『用事?ミスランディアのご用事ってなんです?』
『おお、エステルにはまだ話しておらなんだかな?エルロンド卿に今日は会いに来たんじゃよ。少しばかり、木陰の闇が気になってな。…して、父上のご様子は?』
木陰の闇、という言葉に手を止めていたが、ええ、と眉を下げる。
『すみません、まだ手が離せぬようです。』
それに魔法使いはぱっちりと目蓋を上げて微笑みかけた。なに、いつだってそよ風ほども気にしちゃいない。
『ふぅむ、エルフの殿も忙しいのぅ。』
『ミスランディア、時間があるならなにかお話をして下さい!』
『話も良いが、エステルよ、あちらでグロールフィンデルの殿がお待ちのようじゃが?』
あっと声をあげて、子供が立ち上がった。
振り返った随分遠くの草はらに、金の髪が明るく光っている。
『すみません、ミスランディア。剣の稽古の時間です。』
『なに、今晩はこちらにやっかいになるつもりじゃからな。また夕餉のときにでも話す時間はあろう。なにせここで食事を積極的にとるのはわしとお前さんくらいのものじゃからな。』
片目を瞑って発された言葉に、ええ、とおかしげに返事をして、子供は剣の師のもとへ駆け出していった。元気じゃのう、という言葉に、ええ、とが目を細めた。子供の日々の健やかさは、どんなにかこの谷のエルフたちの心を和やかに、やさしくしてまわることだろう。
『…ミスランディア……、』
ためらいがちな呼び声に、魔法使いも静かにパイプを口から離した。
『木陰の闇、というのはもしかしてレゴラス様の…。』
『さよう。死人占い師が気になっての。森の南に勢力を拡げつつある。』
そうですか、と眉をひそめたの隣でもう一度パイプを口に戻すと、魔法使いはぷかりと煙を吐いた。まぁるく輪になったそれは、ふわふわと空へ昇ってやがて薄れて消えてしまう。
『姫君の耳にまでその名が聞こえていようとは。』
『前に一度、聞いたきりなのですが。』
でもなぜか耳に残っていて、と呟く娘の横顔を眺めながら、魔法使いは何かを考えているらしかった。しばらく不意に静けさが落ちて、けれども遠くから、子供の健気な声が響いてくる。そのことにほっと空気が和んで、二人はどちらともなく顔を見合わせた。せっかくの春の日和だ。よく日のあたるバルコニーはあたたかく、吹く風は心地いい。
『なに、そう暗い顔をするでない。わしがエルロンド卿に怒られるわい。』
『まあ、そんな顔をしていました?』
『美人が台無しじゃ。』
ふふふ、と肩をすくめて笑う娘は、ずいぶんとエルフらしくなったと魔法使いは思う。けれどもこうした笑い方は、ずいぶん、人の子らしく、そうしてずいぶん、好ましかった。
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