足取りも軽く、長い回廊をエルフの姫君が歩いている。
『おや、姫。ご機嫌ですね。』
 そう声をかけられて、姫君は足を止めた。にこにこと柱の影から顔を出したのはグロールフィンデルだ。輝くような金の髪は、黒髪エルフの多いこの裂け谷の中でもひときわ明るくよく目立つ。いにしえからの武人である彼だが、今日は袖の長いゆったりとした服を着て、まさしく神話のなかにでてくる伶人そのものだ。淡い藤色の服はすらりとして、髪も美しく結っている。
『そう見えますか?』
『ええ、とても。』
 楽しげに尋ね返して、姫君は肩を揺らした。今日はも、いつもより美しい装いをしている。幾重にも重ねた薄い布のドレスは優しいエメラルドの色をしている。遠めに見るとごくごく薄い白群にも見え、春の霞をまとったようだ。流れる黒髪には、白い花が編みこまれている。朝から侍女たちがずいぶんとはりきったせいで、朝食の時間にずいぶん遅れた。
『グロールフィンデル様もそうでしょう?』
『おや、よく分かりましたね。』
 にこやかにそううそぶきながら、さあどうぞ、と腕を差し出されて、は目を丸くするとそっと腕を重ねた。『アルフローリエンをエスコートできるなんて光栄ですね。』 ふふ、と彼が笑うと髪と同じに金の睫が細かく震えた。まるでそこだけ光を満たしたようで、その隣で同じように、夜空そのものの髪も輝いている。
 今日は立春の宴の日なのだ。
 誰も、彼もが美しい装いで、訪れた春に笑い声をさざめかせている。そもそもエルフは宴を好んだ。遥か遠方の友、近くの友人、まだ見ぬ客人を招いて歌と踊り、詩と音楽。エルフのそれは、どんな都の詩人にも、書き表せないたのしさ、美しさだ。
 腕を組んで歩きながら、一組の美しいエルフの男女は、今日これから行われる春の祭りのことを話している。ごちそうのこと、特別なお酒のこと、招かれる人々のこと、それから人間の子供のこと。
『朝からお風呂に入れられて、ずいぶん困っていましたけれど。』
『ああ、人間の男の子は、なぜかみなあまりお風呂をあまり好みませんからねえ。』
『逃げ出して嫌がったりはしませんから、かわいいものですけれど。』
 逃げ出して嫌がる人間の子供を知っているような姫君の口調に、グロールフィンデルはおやと思ったがなにも言わなかった。同じようにふと、遠く遥かに置いてきた思い出が口をついて出たも、それをなんでもなかったことのように次の言葉を口に乗せる。さみしいもかなしいも見ないふりをして。それらを見つめるには、今日はあまりに美しすぎる。春の光はあたたかく、森に吹き渡る風の上で、うらうらと照れている。
『立派な服を着せてもらって、すっかり立派に、小さな公子殿のようでしたよ。』
『それは見るのが楽しみです。』
 剣の師として鼻が高い、と彼のほうがそう言って、ほんとうに、と彼の腕に添えていないほうの手で口元を覆って、彼女のほうが優しい笑い声をたてる。
 表のやわらかい草の上には天幕が張られ、花をたわわに咲かせた木々には、色とりどりの美しい星が飾りつけられている。宴と聞くと張り切る双子の王子は、今朝から準備にあっちこっちを飛び回っていて忙しく、同じように宴を好いている父親の表情も、いつもよりずっと明るく見える。 
 裂け谷に春が来た。その宴は三日三晩続き、お祝い好きのエルフたちは、朝な昼な夕な、訪れた春を愛でて甘い寒露とごちそうに歌い踊って過ごすのだ。それはもちろんこの黄昏の国だけでなく、花と夢に満ちた黄金の森でも、緑深い闇の森でも、同じように宴が催されているだろう。
 "あなたもお招きできればよいのだけれど、"と優しい手紙が届いたのは一昨日のことで、谷を出られぬの身分を、当人よりもよほど残念がっていた。春には春の、夏には夏の、森の王が戴く四季折々の冠のなかでも、立春のそれは一際美しいのだという。その日にしか咲かない特別な金と銀の花を編んで輪にしたそれを、金色の頭に戴いた王とその息子を囲んで、闇の森ではそれはそれは賑やかな酒宴が催されるのだという。この谷で酔っ払って眠ってしまう者はほとんど見かけないのだけれど、むこうでは違うというのだから相当だろう。
 同じように姉姫からも手紙が来ていた。"お祖母様もお祖父さまも、あなたを呼べないのをとても残念がっています。"もちろんそれは私もです、と続く言葉には思わず笑顔がこぼれてしまった。ロリエンの春の宴はどんなかしら、としばらく一度は留まった、あの朝も夜も不思議な星の光に包まれた森を思い出す。心に描くだけで、厳かにどこか涼しく、そうして優しくこうふくな気持ちになる土地は、この中つ国にはそうないだろう。
 ギルドールはどこかの旅先で、天幕を張って、偶然居合わせた友人たちを次々招いては宴をしているに違いない。
 中つ国のそこ、かしこで、春を祝う楽しい声が上がっている。それはなんだか、とても優しい、しあわせなこと。
 ぱたぱたと軽い足音が、向かうほうから跳ねるように駆けてくるのが聞こえる。
!お師匠!』
 勢いよく飛びついてきた子供を受け止めながら、二人は明るい笑い声を上げた。
 春だ。



38.Million Spring Spree
20140312/