「でかけられるのでしょう?」
最初トーリンは、身内の宴会にそのエルフがいることにもちろんいい顔をしなかった。
夜色のローブを頭まですっぽりとかぶって、彼らがこちらへ歩いてくるのに誰よりも早く、その"よく見える"目で気がついたのだろう。背筋を伸ばして、迎えるように立っているのが、遠くからでも星明りの光るようによく目に付いた。
「みんなだけでソーセージを食べていたなんて…!あっ、卵も、ベーコンもある!」
ずるいですよ、とホビットらしく食べ物のことに憤慨しているビルボの隣で、トーリンとバーリンはしげしげとエルフの娘を眺めなおした。おかえり、と三人を出迎える仲間に交じって、彼女は確かに、でかけるのか、とそう確かめるように問うた。
話したのか、と目線だけですぐエルフの傍にいたボフールを問うと、まさか、と首を横に振る。
そもそもすぐ発つ、などと彼はひと言だって誰にも言いやしなかった。それはもちろん、声にするまでもなく、ドワーフたちの間では共通の認識だったには違いない。
訝しげに見つめられて、が人のよくするような笑い方をした。
そうしてトーリンは、自らが今初めて、この人と目を合わせたことに気がついた。その瞳の色は銀色をしていた。星だ、と思った。その目の中に星があった。それは星明りが冷たい巌の上に降るように、ただまっすぐに彼の青い目を貫いて届いた。魔女の目だ、と思う。なにか、心の奥底に凝った澱を、見透かされそうな気がする。
二人がじっと静かに対峙しあっている後ろでは、驚くほどすばやく片付けと旅支度がなされていた。いつでもすぐに、どこへでも出て行ける。長く定住する土地を持たなかった彼らは、その身に後を濁さず旅立つ仕草が染み付いている。
「……止めないのかね。」
黙ったままの主君の代わりに、バーリンが静かに声を発した。長く生き、老いたドワーフの声はどこか哲学者めいていて、時折エルフに近いような響き方をする。
「わたくしはただ、もてなすように、と。あなた方は王と王の客人です。旅立たれるなら、止めはしません。」
ことさらに静かに、凪いだ声ではそう言った。まるでそれが嘘偽りのない真実だと、分からせるように。
ただ、と囁く声音ばかりが人間じみて、少し悪戯っぽい響きをしていた。
「そちらからでは目立ちます…こちらへ、崖沿いに抜けていったほうが近道にもなるでしょう。」
ドワーフたちが進もうとしていた道を、知らされてもいないのに指で示して首を振ると、はまったく反対、憩いの館のその奥を指差した。
「その手には乗らんぞ。誘い込まれて牢屋にドン!はごめんだからな。」
「この国に牢などありません…仕方がありませんね。では食べ物を先ほど分けていただきましたから、そのお礼といたしましょう。ご案内しますよ。わたくしを信じてさえ下さるのなら。」
焦げかけた小さなソーセージひとつだ。
けれどもしんと誰もが黙った。エルフとドワーフの間に横たわる溝が随分と深いらしいことをようやく実感として理解してきたビルボは、ついていきましょうよ、と声をかけたいのだけれど、回りが全員怖い顔なので、できない。
「ミスランディアがお父様たちをひきつけている今がチャンスなのでは?」
「なぜ知っている。」
「聞こえました。」
今はもう聞こえません、と横顔を月明かりに透き通らせて、が遠くを見た。その横顔はやはり内側から輝いて、エルフ、そのものでしかありえない。
先ほどまで、こどものように珍しそうにドワーフたちの宴会を楽しんでいた娘はもうどこにもいなかった。そこには永い星霜の年月を経た、エルフの乙女がいるだけだ。
それ以上言葉を待たずに、娘は歩き出した。
初めて見たときと同じように、ほの青く輝いている。時がゆったりと息を潜め、まるで、辺りがしんと静まり返る。魔法でもつかったのかしらと思うくらいに、音が、石が、森が、闇が、声を殺す。
どうしよう、という目線を向けられて、トーリンはやがてゆっくりと頷いた。それにめいめいが頷き返すと、武器を手に、足音を潜めて姫君の後へ着いていく。月明かりにぞろぞろと、エルフの姫の後ろをドワーフの殿、そしてその仲間とホビットの、小さな影がついて歩く。先頭の姫君は人目をはばかる様子もないのに、真夜中ゆえか、それとも別の何かが働いているのか、誰にも見咎められることはなかった。
館を抜けて、さらに月明かりを移す庭の小道を抜ける。するとすぐにぐるりと裂け谷を囲む断崖の壁に行き当たった。細い指先が指し示す先に、巌を削って作られた小さな階段がある。そのまま指が動くとおりに視線を動かすと、やがてその階段は谷の外へ抜ける崖の裂け目へ繋がっていることが分かった。遠くで滝の落ちる音。
ここまでです、とそう言って、姫君はエルフ式の別れの挨拶に胸の前にそっと当てた右手をドワーフたちに向かって広げた。その挨拶の受け方を知る者は一向のなかには少なく、また知っていた一部の者はその礼を返す気もなかった。は静かに微笑して、さようなら、と言う。
「わたくしはこの谷を出ることを許されていませんから。」
このまま道に沿って進めば領地の外です、とそう笑った。
「ありがとうございました、姫。」
誰も礼を言わないので、居心地の悪い、礼儀正しい紳士のホビットが一人、礼をする。若いドワーフたちはちょっと肩を竦めて、少し決まり悪げに、じゃあ、とだけ言った。そうして次々、細い崖伝いの道を振り向きもせず昇ってゆく。
それをしんがりで見届けながら、ふいにトーリンは口を開く気になった。
「……なぜ手助けを?」
問う低い声に、娘が少し振り返った。かすかにぞっとするような、美しい微笑していた。
「私は決して、いつかきっとここを訪れる小さな人の、手助けを許されていないので、」
せめてあなたがたを代わりにしようと思って。
多くの感情を含んだ、それでいてそれらすべてを曖昧に靄で包んでしまったような声音だった。つまり、ドワーフを助けるのではない、と言いたいのだともとれた。これが助けようとしているのはホビットだ。
そう思い当たって、なぜかしら、妙に、エルフ嫌いのドワーフの大殿は、少し、ほんの少し、なんだ、と思ったのだ。なんだ。
小さな落胆。
いつかそれは、大きな慟哭の苦しみとなって彼を襲った。友だと信じていた。けれども友は背を向けて、それきり、それきりだ。彼の国は、民は、焼けて、燃えて、死んでしまった。滅んでしまった。辛い過去に思いをやるとき、その蒼灰色の目に、暗い炎が燃えることを、彼は随分長いこと知らずにきてしまった。思い返すたびに、彼の中で、何度も何度も繰り返される。あの炎、あの殺戮、あの憎悪。何千何万の彼の民が、何度も何度も彼の中で繰り返し助けを求めては虚しく死んでいった。
「……あなたにも、」
ふいに聞いたこともないような美しい"音"が耳を掠めて、トーリンははっと顔を上げた。
星明りをいっぱいに満たした美しいかんばせが、すぐそこにあった。
『神々の恩寵がありますように。』
それがエルフの言葉で囁かれたのか、人間の言葉であったのか判じかねた。幾重にも重なって、自分の内側から響くように思えた。銀の瞳、星の瞳が、彼の目を覗き込んでいた。すべて見透かされるような、恐怖感だ。おそろしかった。
彼がほしいのは恩寵でもなんでもなかった。友の助け、ただそれだけが欲しかった。
あの日、あの時、あの瞬間に。その手を差し伸べて欲しかったのだ。竜を倒してくれとも言わない。王国を取り戻してくれとも言わない。ただ、あの時、死にたくないと救いを求めた彼の民を、たった一人でもかまわない、神々の愛を一心に集めるその指先で、掬い留めてくれたのなら。
それこそが己の弱さだ。
異種族の、血の繋がりも何もない、他人に、救いを、友情を求めるなどと。
呻くように逸らされた瞳になにを見たのか、娘が一度、何か言いかけて、しかしやがて、その口を閉じる。
「…御武運を。」
囁かれた言葉に彼はもう振り返らなかった。
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