細い道を崖伝いに昇りながら、次会うときまでに、とアルフローリエン、どちらで呼ぶか決めておこうとビルボはふいに考え付いた。
 そうだ、きっと帰りにここを通ったら…。そう言えば今まで、さっぱり具体的に"帰り"のことを考えたことがなかった。けれど、もし、もしだ。もし無事にこの危険極まりないやっかいな旅から生きて帰れるとして、そうしたら…。契約書に書いてあったような危険極まりない"事故"に遭わずに帰ってこれたら。きっとあの人は自分たちが来たときと同じように出迎えてくれるだろう。その時きっと、さっとお辞儀をして、恭しく、騎士が姫君にするみたいに(実際彼はそんなところ見たことがなかったけれど)その手をとって、「ビルボ・バキンズ!再び生きてあいまみえましたこと、光栄に存じます!」だなんてこの美しいエルフの姫君の名前を呼んで言ってのけるのだ。きっとずいぶん、気分がいい。きっとすごく、しあわせだろう。
 鼻と耳をヒクヒクさせて、ビルボはにっこりと笑って振り返った。
 真っ青な月明かりの下で、遠く、裂け谷を囲む崖の上からは、その館の一番端、崖の麓で手を振る美しい人影がよく見えた。それは星のようにほの青く、内側から光っている。
「お星様みたいだ!」
 思わず感心して呟いた小さな声を拾って、キーリが少し、めずらしく困ったように笑ってみせた。「早く行くぞ。」振り返る様が名残惜しそうに見えたのかしら。さっさと追い抜かして先頭をいっていたトーリンが少し振り返って鼻を鳴らす。あまり機嫌がよくないみたいだ、とビルボはキーリと目を見合わせて、けれども最後にもう一度だけ。これが見納めかもしれないのならなおさら鮮明に焼き付けておきたい。ビルボはもう一度だけ振り返る。
 その人はまだ手を振っていた。この道を左に、崖の裂け目へ入ればもうその姿は何度振り返ったところで見えまい。
 はあ、と今度こそ名残惜しそうなため息をついたビルボに、キーリはもう一度、困ったように笑ってその背中を叩いた。
「当たり前だよ、ビルボ。」
「ええ?」
「彼女たちは我々とは違う…"星の子"らだ。」
 イルヴァータルの長子、神々の寵児だよ。その声はどこか、ひそやかに寂しげに聞こえる。我々とは違う。そういう風に。
「エルフって言うのは、みんなああなんですかね?」
「さあ…俺たちもそう、エルフと付き合いがあるわけではないから。」
 でもあの館の主も、姫君も、少し変わってるんじゃないかと思うよ、とそう頬を掻いた。"長い耳のやつら"のことばかり話していると、おっかないドワーリンの機嫌が悪くなるので、二人は列の一番後ろを、並んで、それから小さな声で話した。
 どうしたんだ、とフィーリが不思議そうに歩調を緩めて、「"これ"のことさ。」 とキーリが耳の横でそれぞれ人差し指をピンと立てる。ああ、と納得したようにフィーリも少し困ったような顔をして、けれどもビルボがあんまり素直に、「美しかったなあ!」 と言うので笑ってしまった。どうにもこのホビットというのは、正直で善良なので、頑固者のドワーフもつい、影響されてしまう。おまけにまだ若くて、精神もしなやかなこの二人やオーリにはなおのことだろう。この小さな人の持つ朗らかな善良さは、どうしてかしら、金銭が絡まなければ他の種族とめったに交わることのない彼らにも心地よい。
「それは、まあ…うーむ、意地を張っても仕方がないか。認めよう。」
 美人だった、とフィーリが両手を上げる。降参のポーズだ。
「ガンダルフが言ってましたっけ。姫はエルフ一の美しさを讃えられる姉姫様に瓜二つだって!」
「エルフ一が一家に二人もいたら、世話ァないなぁ。」
「さぞやエルロンド卿も鼻が高いでしょうねえ。それともやっぱりエルフの殿方でも娘が美しすぎるっていうのも心配の種かしら。」
「さあなあ。」
 ひそひそと話しながら、前を行く仲間を見失わないように、それから辺りの気配に十分気をつけて進んでいく。
「とにかく俺たちとは違う、別の生き物さ。」
「老いることも、死ぬこともなく、永遠に生き続ける。」
 少しそれにうらやむような響きを感じ取りながら、けれどもビルボは、その途方もない永遠のことをふと考えずにはいられなかった。いつまでも、いつまでも生きて、生き続ける。それっていったい、どんなに果てしない、途方のないことなのだろう。
 くったくのない姫君の笑顔を思い出した。
 まだ若いのだと言われていたエルフの姫君。その彼女も、今もずっとこれからも、いつまでも、ずっとずっと生きていくのだという。あの美しく優しい人が、いつまでも生きてくれている。それはとても、うれしいことのように思えたし、けれども酷な、ことにも思えた。ほんの少し話をしただけだけれど、きっとあの人は、出会った者すべてのことを、きっといつまでも覚えているだろう。何千年も経った朝に目覚めて、もうとっくにいない人の夢を見て、あの人は心を痛めたりしないかしら、と考えると悲しくなった。花と光の中で、いつまでも微笑んでいるのが似合う人だのに。
 三者三様に、それぞれ物思いに沈むような沈黙が降りた。
 とかくあの憩いの館に満ちていた雰囲気は、今まで考えたこともないようなことを、訪れた者、特にエルフとは異なる種族に考えさせた。ビルボは永遠と言う途方もない尺度のことを考えていたし、キーリは地に棲む者と空に棲む者のことを考えていた。フィーリは二つの種族の違いが、その決裂を招いたのかもしれないと、自分が生まれるよりも昔の諍いと、そのさらに昔、それなりに異なる種族が友好的に暮らしていた時代とのことを考えた。永遠を持つものと、持たざるもの。それらの違いは、どれだけ歩み寄っても埋まることはないだろう。
 考えにそのまま沈みこみかけた三人の頭を、野太い声が 「こら!」 ぐわん、と叩いた。
「遅れとるぞ!」
 グローインがこっちを振り返ってこぶしをあげている。その後ろにおっかない顔したドワーリンが見えて、三人は慌てて、足を速めた。


43.ever lasting
20140422/