崖の裂け目に最後の一人が消えてからも、しばらくはその消えていった道を見つめていた。いってしまった。本当にほんの一時、立ち寄っただけ。何か大きな目的のある旅だということは傍目にも明らかだった。自らの行いが正しかったのかは分からない。けれども"望まれた"だけのことはしたのだと、は静かに息を吐いた。
 これで合っている。はずだ。
 ふと館のほうを振り返って、まだその一角に青く、淡く、星の明かりが点いていることを確認する。アルフローリエン、と風のような囁きに呼ばれて、は振り返った。不思議と驚きはしなかった。今夜ここに、彼女がいることは分かっていたからだ。
 やはりそこには、真っ白な姿が立っていた。
『お祖母様!』
 お久しぶりですと声を上げた孫娘の背中に優しく手を回しながら、ガラドリエルはいちどその青い瞳を閉じた。
『久しぶりですね、アルフローリエン。息災でしたか?』
『ええ!ええ…お祖母様はどうしてイムラドリスに?先ほどの声は、お祖母様が?』
 矢継ぎ早に繰り出される質問に優しく笑いながら、まずガラドリエルは自らの姿を手のひらで楽しげに指した。
『これは水鏡で送っているわたくしの影。』
 だからいつ、どこにでも、現れることができる。とそう微笑む。
『ミスランディアが喜んでいましたよ。きっとあなたなら意味が通じるだろうと思っていた、と。』
『ああ、ミスランディアだったのですか。』
『ええ。わたくしはそれを黙って容認しただけ。』
 悪戯っぽい少女のような微笑がその美しいかんばせに浮かんで、はそれにほっと口元を緩める。
 ドワーフたちの焚き火に気付くよりも少し前、暗い回廊で、彼女の耳に音が届いた。父と、魔法使いと、祖母と―――それから誰かが話している。ドワーフ、竜、旅、危険。彼らだけではやり遂げられない、というミスランディアの声がしたきりふつりと声は届かなくなった。
 彼らだけではやり遂げられない―――。
 楽しげに食事を囲むドワーフたちを見て、は自分なりに、今聞こえてきた―――聞かされた言葉の意味を処理する。だれかのたすけなしにはやりとげられない。
『……お父様のご迷惑にはならなかったでしょうか。』
 それだけが不安だと眉を寄せたの肩を叩きながら、親しげにガラドリエルが目を瞑る。
『心配は要りません、かわいい子。…あなたはただ、強面で髭だらけの恐ろしいドワーフたちに武器を片手に館の出口を尋ねられただけなのですから。』
 まあ、とが目を丸くして、『お父様を安心させてあげなさい。』 とガラドリエルが楽しげに声をたてて笑う。
 水面が色や形を変えるように、くるくるとその深さや冷たさ、おそろしさや優しさを見せる上古のエルフだったが、は祖母となったこのエルフのことがやはり、どこかその力の強大さに畏れを抱きながら、好きだった。特にこうやって、花園で屈託なく笑う少女のような笑顔を見せるとき、ガラドリエルはまさにその名の通り、黄金の花冠をいただいた誰も彼もを魅了せずにはいれないエルフの姫君だった。
 さあ、と幻のゆびさきに館を指されて、はそちらへ体を向けかけ、しかし途中で動きを止めた。
『なにか心配事が?』
 上のエルフはそのすべてを見通す青い目を凝らすまでもなく、幼い娘の感情の機敏など知っているようだった。
 だからこそ、父や、兄や、親しいエルフたちに面と向かって訊けない言葉が、弱音が、するりと口をついて出る。
『……お祖母様、わたくしはやはり、エルフではないのでしょうか?』
 問いに静かに、ガラドリエルが首を傾げた。夜はほとんど明けかけていて、彼女を包む星明かりも、だんだん弱くなっていく。
『なぜそんなことを言うのです?』
 それでもその声は、深遠から響くように、強く、優しく、の心へ直接響いた。
『目を閉じて眠っていたのです、この間。』
『……目を?』
(なにかみましたか。)
 初めてガラドリエルが驚くようにして、その後すぐに、心に直接、言葉が語りかけてきた。
 口には出さず、もまた、心に答えを思い浮かべる。

 ―――いいえ。
 いいえ、な に も。
 なにも見ませんでした。ま っ く ら で 、 な に も 。

『……そうですか。』
 しばらくの沈黙が続いた。しかしふと、不安げにわななく娘のくちびるを眺めながら、ガラドリエルはみるものがうっとりするようなまろやかな笑みを浮かべる。まったくこの娘は、自らがどんな悲しげな顔をしているか知らないのだ。誰もが思わず、慰めて優しくしてやりたくなる。
『大丈夫、あなたは我々と同じ、星の子に見えます。』
『…似ているだけで、もし違ったら?』
『例え億が一そうであっても、わたくしの孫娘であることに変わりはない。安心なさい、アルフローリエン。ここにそなたを傷つけるものはない。』
 傷つけるものはなくとも、属するものもないのかもしれない。その不安がを身内から蝕んでいることもガラドリエルはもちろん知っていたが、今告げた以上の言葉を、彼女とて持たなかった。だからただ、そっとその美しい手のひらで、同じように美しい手のひらを包んでやる。
(……―――ご覧、)
 囁きかけられてが顔を上げた。そんなに星明かりを顔中に満たして、エルフじゃないなどと馬鹿なこと。
『同じ星明かりです。』
 二人の手のひらに、同じように、同じ星の光が、しんしんと積もっていた。


44.when you wish upon a star
20140422/