あの緑の丘で鳥が舞った風が笑った。僕はそのまま飛んで行こうと決めた。
さよならさようならと窓の外の君が言うので、銀の箱の中に隠してしまった。


01.少女はポーチで機械人形と

 その日はとてもいい天気。空は青くて虹が出ていた。細かい雨が降ったから。天気雨ですぐ止んだ。
 緑の丘を、男がひとり、歩いてくる。背が高く、金の髪をして、全身黒い服を着ている。
、かえっておいで、ご飯だよ!」
 男は誰か探しているようだった。名前を呼んでは、あちらこちらを振り返る。
ー!」
 返事はない。彼は仕方がないなあというように、少し首を傾げるとまた歩き始めた。その動作はスムーズだ。誰が彼を機械だと思うだろう。その男の名前はエプシロンと言った。彼は、正しくはheという代名詞が当てはまらない、it、そう、それは男性型の機械人間だった。itというのがはばかられるほど、光子エネルギーによって稼動する、高性能の完成された美しいロボットだった。
 だから彼の頭の中にある、高性能のレーダー機能を使えば、おそらく彼の探し人は一瞬で見つかるのだろうけれど、彼はそれをしなかった。人間(ヒューマン)と同じように、彼はひとつひとつの心当たりを歩いて、名前を呼んで探した。いい天気だ。確かにこんな日は、外へ抜け出して昼寝でもしたくなるだろう。それとも虫を取りにいったろうか。花を積みにいったろうか。彼はゆっくりと、しかし少しだけ時間を気にしながら歩いた。もうすぐ昼食だ。他の子供たちが、という女の子の帰りを待っていた。ご飯はそろって食べるのが決まりだ。小さな子供たちのことは、年長の子らが面倒を見てくれているけれど、ワシリーのことも心配だし、あまり長くは放っておけない。彼の頭の中は子供たちのことでいっぱいだ。ミハエルは赤が好き、だけどニンジンは嫌い。そう言えば今朝、アシュレイはあまり食べなかったからお腹を空かせているだろうな。ナナはさっきレスタをだっこしてあげていたけれど、落としたりしないだろうか、いや、ユーグが隣でちゃんと見ててくれたし大丈夫だろう、彼は年の割りに大きくて力持ちだもの。エプシロン、がいないよ!って一番最初に気が付いたレダ。ほんとだ、いないよー!って言ってみんなめいめい家の中を探し始めた。テーブルの下にいないか?ベッドの下は?トイレは?屋根裏は?一気にかくれんぼ大会の始まりだ。鬼はみんな、隠れるのはひとり。外を見てくるよ、と笑った彼に家の中は任せて、と笑った子供たち。

 思い返しているうちに丘を登りきってしまった。緑の丘には木が一本。彼はその根元に立って、ふう、と息を吐いた。呼吸を整えるためではない。彼は機械人間(ヒューマノイド・ロボット)だからそんな必要はない。めったなことで彼の呼吸が乱れるようなことはないのだ。しかしそれはなんだか癖のようなもので、ほとんど無意識に行われた。人間と同じように。丘からは周りがぐるりと見渡せる。オーストラリアの片田舎。丘の南には小さな森が広がっている――その森の端に墓地があり、森を抜けると小さな町がある。森によって区切られたような、海岸線までの僅かな一角に、彼は住んでいる。丘の北西に彼の家が見える。そしてやや北より、海にせり出した小さな岬にも、一件、小さな家が見えた。煙突からは煙が出ている。きっとあちらも、昼食の支度の最中だろう。ではやはり、を早く見つけて帰らなくては。
 弾けるような笑い声が、ふと彼の頭上で起こった。
「エプシロン!」
 見上げるより先に、言葉が降ってくる。ついでに緑の青々とした葉もいくつか一緒に。
!」
 エプシロンがほっと口端を笑みの形にして、見上げた。木の枝の上には少女がひとり、楽しそうに笑って座っている。彼の探し人が見つかった。真昼の太陽を乱反射して、やわらかに光る緑の中で、少女はなにか、別の生き物のように見えた。幸福な、園に住まうような。ヒュペルボレオスかエリュシュオンの住民かあるいは天使か。ほんとうに機械人間の彼が錯覚してしまうくらいには、その少女は陽気に笑う。その僅かな人生の中で、彼女が体験してきた数多の苦難も悲しみも絶望も、まるであったと感じさせないように。
、」
 見上げると太陽がちょうど眩しくて、彼は瞳孔を収縮させる。
「見つけた。」
 その言葉にじき12になるその子供は、悪びれなく笑うと、枝にかけていた腰を浮かせた。ぽおんと軽いからだが宙に浮く。エプシロンがぎょっとする間もなく、彼女は見事に彼のまん前に着地している。ズボンについた葉を払い落とすと、彼女はにっこと振り向いてもう一度笑った。細い足。
「エプシロン、ずっと探してるのがよく見えた。」
「なら出てきてくれなくっちゃ困るよ。」
「ごめんなさい。」
 少しかくれんぼしてるみたいでおもしろくなっちゃったの、と肩を竦めて歯を見せるを見下ろして、エプシロンは少し困ったようにわらった。ごめんなさいエプシロン、先ほどよりちょっと真面目なその言葉に返事の代わりに小さな頭に手を乗せた。まだやわらかい髪の毛。さらさらと指の間を滑る。
「ご飯だ、帰ろうか。」
 それにうん、と頷いては右手をそろりと差し出した。その意図を一拍置いて汲み取ってから、エプシロンが左手でその手を掴む。それでやっと彼が怒っていないことがわかったんだろうか、はうれしそうに繋いだ手をゆらゆらと振って歩いた。ご機嫌だ。大勢の子供がいる中で、彼と手を繋ぐのはなかなかの競争率だ、簡単なことではない。こうやって偶にエプシロンをひとりじめするような機会があると、子供たちはみんなこんな顔をする。
「今日のご飯、なぁに?」
「パンとサラダとシチュー。」
「わあ!ねえ、シチューはじゃがいもおっきいのいっぱい入ってるかしら?」
「多分ね。」
 やった!シチュー大好き!とが歓声を上げる。にこにこしている表情は、きっともう食卓の上に並んだシチューでいっぱいなのだろうなとエプシロンは思ったのだけれど、どうもそうではないらしい。
「シチューも好きだけどエプシロンも好きだよ。」
 食べ物と同列である。エプシロンはその突然の素っ頓狂な発言に目を丸くしてそれから笑った。
「ナナもミハエルもレダもユーシスもエジカもオシアンもワシリーもみんなみんな好き。でもエプシロンがいっとう好きだよ。みんなもきっとそう。」
 子供と言うものはどうしてこんなにも敏感に周囲の精神の波長が異常を来たすとそれを嗅ぎ取るのだろう。エプシロンは泣き出したいように思った。ここのところ世間を騒がせている機会人間と科学者殺しは、彼の精神を悲しく波立たせている。
「だからね、だいじょうぶだよ!」
「…ありがとう、。」
 エプシロンが笑うと、は不思議な笑い方をした。眉を寄せて首をかしげて、それでも確かにきれいに笑う。
 繋いだ手があたたかだった。

081115
(ある日彼女は言ったって。)