嘘つきなのかと訊ねられたら、僕はなんと言って答えたらよいのだろう。
山は美しく、空も大地も鳥も獣もみな同じ。では人はどうだ?人は、どうだ?


05.それでも世界は美しい

「…彼が死にました。」
 バタンと扉の開く音がした。立っていたのはエプシロンだった。この土砂降りの中を、歩いてきたのだろう。機械人形の癖に、頬が白く青ざめている。顔面蒼白というべき、その無表情で、小さく震えながらエプシロンが呟く。
「私の神が死んでしまった。ころされた。」
 それには、不思議な微笑のまま、診察椅子を回転させる。いつもと変わらず、ゆったり座って、入り口に立ったエプシロンを観察している。エプシロンはほんとうに凍えてしまったように、息を荒くして青いまま、そこに立っている。彼の足元には暗い水溜りができていた。彼の目玉は、とても暗い。常であるなら木漏れ日のような、優しい緑をしているものを。今の目に、その緑は見受けられなかった。まるで暗い、水溜り。ぽっかり開いた井戸の底。そんな目をしている。
 は少し笑って、いつもの癖で診療台をコツコツと人差し指で叩いた。その指の先の、ベージュのマニキュア。診療室の赤色灯が、すこしぶれるように悴む。
「どうしてここへきた?」
 静かにが告げた。エプシロンが、途方にくれたような顔を上げる。はまだ、件の不思議な微笑を浮かべている。
「…どうしたらいいのかわからなくなった。子供たちにはとてもこんな様子は見せられない。だからあなたに会えば何かがわかるかと思って―――、」
「まったく子供らといいあんたといい、私がなんでも知ってて分かってるとでも思ってるのかな。」
「…そんなことは、」
「ロボットとは不便だね。そうであるという自覚があるせいで、君達自身で自身を殺してるのだから。」
 くるりと診察椅子を回転させて、エプシロンに背を向けたが言う。歌うように。
「君の頭は飾りかな?そのすばらしいコンピュータは機能していないの?」
「私にはなにもかもがもうわからない。私の神が死んでしまった。もういない。」
 ぜつぼうだ。エプシロンが、よろよろと診療台に腰掛ける。はただ、椅子に腰掛けたまま、ただその眼差しを注ぐ。
「君らロボットはいいね。神がまだ生きているのだから。」
 その言葉にゆっくりとエプシロンは顔を上げた。絶望しきったその目玉。
「…もういません。」
「私らにもいない。おそらくね。とっくの昔に殺したよ。」
 しばらく沈黙が降りた。
「君は幸いだ。私は生まれてこの方神を見たことはないが、君は生まれて随分ながいこと、君の神と共にあったのだろう?」
「しかしもういないのです。」
「そうだね、かなしいことに人間は死んでしまう。殺されたのは突然だがしかし必ず訪れる運命だ。死からだけは、われわれは逃れることができないんだよ…。お悔やみを申し上げる。」
 エプシロンが、いやいやと首を振った。子供のようだ。生まれたての子供。は背筋が震えるのを感じる。今彼女の目の前で、ロボットという生命が誕生しようとしていた。その誕生に立ち会うことは、医者としても工学者としても規格外の彼女に、とてもとても興味深いものだった。彼女はいつになく饒舌に、しかしいつも以上に言葉を選別して使った。確実に、今、この機械人間に言葉の与える影響は大きい。
「…彼も人間だ。神ではないよ。」
「…知っています。しかし彼はまた、私の神でもありました。私を0から創り上げたのですから。」
 呻くようにエプシロンが言葉を発する。泣いているのか?その目玉は手のひらに覆われて見ることができない。泣いているのか?ゾクゾクするような心地で、はその目元に目を凝らす。悲しみは感情の第一歩だ。普段からその片鱗を見せていたこの機械人間ならばあるいは、もはや悲しみを自分のものとしてしまったろうか。
「…泣いている?」
 耐え切れずは訊ねた。エプシロンが、はっと打たれたように顔を上げる。その目に涙はない。
「私はロボットです。泣けるはずがない、」
「だが君は悲しい、違うかい?」
「…それは、」
「その感情は嘘かい?虚構なのか?君らの言う人間の"真似事"なのか?」
「ちが、」
「神を失った喪失をなお、君はただの"ふり"だと"真似事"だと言うのか?」
 今度こそエプシロンは、絶望しきったような顔をした。目の前の医者が、何を言っているのか理解してしまったのだ。は冷静な科学者の目で告げているのだ。お前には感情と呼べるものがあるだろう、認めてしまえと。そうしなければ、お前のその嘆きも悲しみも、薄っぺらな道化のお遊びになってしまうよと。そしてそれは、お前の神を貶めることだよ。ほとんど脅迫だった。認めなければ、彼の悲しみは、ただのままごとになってしまうのだから。
「わたしはかなしい。」
 たっぷりとした沈黙の後で、小さな言葉が、ポツリと部屋に落ちた。
 が笑う。それだけで十分だった。
「わたしはにくらしい。」
 わたしのかみをころしたものがいることが。エプシロンの言葉は、生まれたてで、あまりに素直だ。それゆえに凶暴で、剥き出しで、あまりに正直だった。
「…なぜなんです?」
 機械人間が問う。絶望しきったその声で。はただ、教会の彫像のように、静かに微笑したまま彼を見つめている。
「なぜ、なぜ。彼が殺されなければならなかったのです?」
 すうとその右の目玉から、一筋しずくが垂れるのをは見た。一生忘れえぬ光景だと、彼女は思った。生まれたての生命は、なんて悲しく、そして美しいのだろう。
「なぜ。なぜ、たくさんのロボットと科学者が殺されるのです?」
 その問いには答えない。
「なぜ戦争が起こったのです?あの戦争。戦争だ。あれ以来すべての歯車が狂っている。」
 私自身、ついに狂ってしまった。とまることのない右目からの漏水に、彼が呆然と呟く。狂ってなんていないよ、エプシロン。いつかの通りの言葉を、は発した。
「君は正常だ。」
「しかし、やはり私はおかしいのです!」
 掠れたような、叫びだ。はなお静かに微笑している。
「あの戦争以来、私はおかしい。私がおかしいのか?そうだ。そして世界もおかしいのだ、だってこんな、おかしい。変だ。狂っている。なぜ!こんな!こんなことばかりが起きるのです!世界は美しいものだと信じていたかったのに!」
 金の髪が振り乱される。戦争、戦争だ。焼け野が原に一人で立った、ロボットの孤独に芽生えたものは確かに、感情と、"人間"と呼ばれるものだったのだ。
「信じてかまわない。…世界は美しい。」
 静かにが告げる。簡潔な言葉。不思議な色をした髪が、肩の辺りで緩やかに円を描く。エプシロンはまた顔を上げると、信じられないという顔をした。そっくり人間だ。が微笑む。
「子供たちは飢え、手に銃を持ち毎日死んでゆく。そんな世界が、本当に美しいと、あなたはそう、思われますか?またそう胸をはって、その子供たちの前で宣言できるのですか?大義名分もなにもなく、突然にすべて奪われた私の子供たちの前でも、あなたはそれを言えるのですか!」
「では君は世界は醜く、汚らしく、お前たちに残酷で無慈悲で冷徹だと、君のかわいい子供たちにそう言うのか。」
 その言葉は凍らせた刃のようだった。
「ああ。それでも世界は、変わらずに美しいよ。」
 その不思議な目玉を、エプシロンは見る。のその、体の内側まで見透かすような目を。その目が告げるのはいつだって彼にとって無慈悲で、けれども慈愛に溢れたことばかり。相反するふたつを、いつでも彼女はこの機械人間に投げかけた。ある時は問いを、あるときには答えを。謎かけのようなリズムで。
「世界は美しくなくてはならない。そうでない面ばかり見えたとしても、君は子供たちになおも世界は美しいと言わねばならない。なぜかわかるか?生きるためだよ、エプシロン。」
 子供たちの笑顔を思う。あの笑顔は、信じているからだ。それでも世界が美しいのだと、自分たちの未来は明るく、そしてそれをこの哀れなロボットが守ってくれると、信じてやまないからなのだ。それに君は、気づかないのか?が静かに続ける。
「世界は醜く、残酷なばかりだと、言われて子供たちは生きてゆけるだろうか?答えはノー。ノーだ。彼らが生きるために世界は美しくなくてはならないよ、そして実際、それでも世界は美しいんだ。」
 エプシロンは顔を覆ったまま、じっと蹲っている。彼が望むのは完全無欠のビューティフルワールドなのだろうか。
 そうだ。エプシロンの頭の中にあるのは、ひとりのしあわせではない。不特定多数の幸せだ。ばかげた御伽噺、ユートピアの世界。きっとおそらくそんな世界に到達するまで、彼はたったひとりをかえりみることはない。例えば懸命に彼をたいせつに思っている小さな女の子だとか、そんな存在に、気づくことすらないのだ。は少し笑い、頭の中で感想を綴る。(彼は混同している。)
「君は見つけなけりゃならない。瓦礫の中でもなお美しいといって手のひらで抱えあげることのできるものを。」
 そしてそれはもはや君の手の中にある。
 エプシロンは混同している。いいや正しくは正確に機能している。
 彼は機会である。彼は人形である。彼はロボットである。彼は木偶である。彼は“傀儡”である。
 彼は博士のプログラムした目的を自らの願望であると認識しているのだ。作られた存在。彼の神の美しい願望をその身に受けて。生まれてきた。彼が美しく尊い願望だと(使命だと)感じる平和は、博士が君に植え付けた目的意識に過ぎないのに。彼は光子エネルギーの平和的活用を望んでいた。当然虚せ身の内いっぱいに、それを満たして生まれた彼に、同じことを望まないはずはなかった。だから彼も、それを願ってる。それは彼の願いではないのだ。だってそもそもそんなもの、この世のどこにも、存在しない。彼の願いなどない。エプシロンの願いは機械である彼に潜在的に植え込まれた科学者の理想であり、目的であり、願望に過ぎないのだ。彼は博士の望みの鏡だ。エプシロンは存在しない。は静かに思考を巡らせてゆく。雨上がりに大樹が地面に根を広げるように、その思考はどこまでも、広がってゆく。
(君のその美しい願いは、そうあれと君自身の神が望んだ、その通りの意志の反映に過ぎない。君がそうありたいと望むのは、それはそれが君に望まれた役割だからだ。)
 だから彼は気づかない。エプシロン自身の願いに。生まれる前から植えつけられた、誰かさんの願いばっかり見ている。自分自身の願いに気づかないなんてなんて愚か。そこまで考えて彼女は一笑する。馬鹿馬鹿しい。人間だって、同じこと。間違えて知らない振りをして自分をごまかしてばっかり。運命の糸を切れ。神の糸を断ち切れ。マリオネッテでは終われない。
 彼女が声をたてて笑ったことに、エプシロンははっとして顔を上げたようだった。にはもちろん、もうそんなのは目に入っていない。ただただ、なんとなくすべてが腹立たしい。
「完全無欠の世界を目指すなら、それもいいだろう。すべての人間がしあわせに暮らす世界が、本当に美しいか私は知らないがね。エプシロン。君の描く幸福と、他者の描く幸福は違うかもしれない。たとえばここでこうして話していても、君と私がかみ合わないように。」
 その囁きに、エプシロンが息を詰める。
「世界は美しくない?君の子供たちが、生きている世界は、美しくないのか?それがいとおしくはないのか?」
 君は普段自分がどんなにか優しい目で子供らを見ているか知らないのだ。
「…それでもやっぱり、笑って君は言わなくちゃ。」
「…。」
「私はうれしい。君たちが私の誕生日を祝ってくれて。私はうれしい。悲しくなるほど世界が美しいから。君たちの住むこの土地が、やはり美しいから。」
「…、」
「それは嘘か?」
「…いいえ、」
「どれをとっても本当だろう?だって君は、あの子らをあいしてる。それだけは誰にも、否定されたくない君の唯一の本当だろ?」
 たっぷりと長い沈黙が降りた。エプシロンが、くたびれた顔に微笑を浮かべてささやく。
「…ええ。ええ、そうです。」
 彼らの未来をあいしてる。そして世界中の、まだ見知らぬ彼らも。
 光は万物に降り注ぐものだもの。君の感情は、美しいね。悲しくなるほど、美しいよ。
 やっとのこと言葉を発した彼の、その台詞はまるで囁くような微弱でもろいものだった。彼の目の下の影。そっくり人間ではないか。絶望している。
「進化を恐れてはいけない…逃げてはいけない。」
 エプシロンが、はっと打たれたように、まるですべての機能が停止してしまったかのように直立し、硬直する。それでもは変わらず穏やかな微笑を湛えたまま告げた。
「思い出せ、エプシロン。」
 胸の真ん中を、が指差して、そっと押した。
「ここで渦巻いてる、ものの名はなんだ。」
 思い出せないなら知ればいい。わからないなら名前をつけろ。それは人間だ。君の中の唯一の本当。



20090219
(それも世界は、)