僕は昔楽園に棲んでいた。そうして今もそこにいる。そこには全てがある。
誰もがそこに、棲んでいる、美しい生命であることを、僕は知らなかった。


07.虹を超えて


 ―――さようなら。私の小さな女の子。
 その言葉を、大切にまるで抱きしめるように抱えて少し丸くなって、彼は笑う。さようなら。彼の金の髪が青い空に舞う。まるで日の光のようだね。
 ―――さようならだ、エプシロン。
 海の見える岬で、女が笑う。白衣を風になびかせて、後ろでひとつに束ねられた鳶色の髪が風に舞う。めがねのフレームは黒。えび色の首まで覆われたセーターを着て、青空を背景に笑う。
 さようなら、優しい機械人間。
 ―――さようなら、エプシロン。
 少女が窓越しに空を見上げて呟く。さようなら私のだいすきなあなた。
(エプシロン…。)
 その頬にとうめいなしずくが一筋こぼれる。その口端は微笑んでいる。
 彼女は目を閉じる。ユートピアを想像する。彼の望んだ美しい世界を。そこで彼とならんで、虹を見上げるのを想像する。周りには彼女の仲間の、子供たち。虹を見上げて、みんな笑う。彼の世界。彼の夢。


 ボン、と軽い破裂音を立てて、彼は弾けて飛びました。金属が噛み千切られる音は、なんとも軽く、小さなものでした。
 ―――ああ、噫。
 子供たちが野原を駆けてゆきます。明るい笑い声を上げて、彼に向かって駆けて来ます。
 子供が泣く。子供が泣く。ありがとうの涙はまぁるい。その手のひらを抱きしめて、子供が泣く。
「あなたは最高の戦士でした。」
 そのロボットも泣いている。涙なんて流しはしない。だってロボットだもの。それでも彼は、泣いている。見ればわかるだろう?噫、君。君。心持つ人間のくせして、なんだってそんなことも、わからないのかい?
 戦士である彼の最大級の賛辞を受けて、彼が流星になる。
 けれど彼の言うことは間違いだ。そんなのは違う。違う。            
ガーディアン
 お前は何をみていたのだ?誰より間近で見ていたくせに。彼は守護者。彼は守護者。ご覧、ご覧。彼の優しい目蓋。その右手と左手の優雅な形を。
 (エプシロンはいとおしい気持ちを抱えたまま目を閉じた。(よかった、ワシリー。)その心臓が破裂し、機能を終える。そしてその意識が、どこかへ弾き飛ばされてゆく。分かれて千々に千切れて吹き飛ぶ刹那、その目玉は虹を見た。)
 美しい虹。
 彼の収縮された瞳孔が、それを捉えた。虹だ。
 子供たちが彼を笑って通り過ぎる。待ってくれ、噫違う、これは記憶だ。私の記憶、では私はどこにいるのだ?私は、わたしは、噫。理解するなり悲しかった。私はもはやどこにもいない。噫、けれども違う、違う。その目玉はまだ虹を見ている。虹は神様との約束の証。楽園のみちしるべ。











 真っ青な丘の上。ふと気がつくと、隣にが立っていた。その肩にそっと手を置く。その手にの、細い手のひらが重ねられる。少し力を強めて、自分のほうへ抱き寄せる。あたたかい重み。
「虹。」
ポツリと、彼は呟いた。虹の橋の下を、真っ白な鴎が一羽、飛空してゆく。光を受けて、真っ白にきらめいて。周りには子供たち。笑っている。美しい、世界。が隣で微笑む。エプシロンの体に、その軽い体重すべて預けて。しあわせそうに。
「エプシロン、」
 見上げた少女のくちびるが、何事か紡ぐ。彼は初めて、心の底から微笑した。











 鴎が一羽、滑るように女の真横を掠め飛んでいった。そのまま鳥は海の向こう太陽のほうへ、真っ青な中飛んでゆく。その瞬間、ああもうあのロボットは生きてはいないのだと直感した彼女は、なぜだか笑ってしまった。悲しくもなければ悔しくも寂しくもない。なぜだか優しい、ばかりが満ちていた。仕方がないなと女はニヤと口端を上げて笑う。噫ほら、見てみな。頭の中で頭の固いロボットが彼女の言うとおり水平線の向こうへ目をやる。言ったとおりだろ、それでも世界は美しい。頑なだったロボットが、はかない笑い方をして、ええ、と答えた。それきりもう、そのロボットが彼女の中で何か言うことはなかった。
 エプシロン、そのロボットの描いた未来を、彼女は頭の中で反芻し、少し笑う。
「私は君の描いたばかげた未来を愛していたよ。」
 誰も飢えず、乾かず、悲しむことはない。子供たちの、笑い声、ささやき、しあわせ。そればかりの世界。傷つけることも傷つけることで傷つくこともない。優しい世界だ。いっそ馬鹿げているくらいの妄想。機械人間の妄想。そこに住まう美しい神々になること。
「そこに住まう幸福な神々になることをずっとずっと夢見ていた。」
 少し風が強い。女はゆっくりと煙草の火を消すと、海に背を向けた。診療所へ下る道を、うっすらと微笑みながら歩いてゆく。穏やかな微笑だ。もうこの道を、あの機械人形が歩いてくることはないだろう。明日から騒々しくなるだろうな。噫まったく、子供の面倒なんて見たことがないというのに。仕方ないな、と笑う口端がやさしい。


 少女が一瞬、錯覚をする。
 虹だ。虹が出ている。
 隣にあの機械人間がいる気がして、そっと瞼を伏せる。瞼の裏の優しい暗闇に、金色の残滓が浮かぶ。やさしいあなた。彼女の肩に手を置いて、少し微笑んでいる。みんな笑っている。虹のかかる丘。名前を呼んだら彼は笑って、少女はおもいを告げた。その言葉に、機械人間が目を丸くして、それから見たこともないような微笑を浮かべた。彼女は瞼を上げる。見上げた真っ青な空に虹はない。彼女は白い服を着ている。空から目を離すと、彼女は振り返る。めいめい必死な顔をした子供たちが、彼女を見つめていた。不安なのだ。彼らにはわかった。彼らはひとつの直感を共有している。彼らにはわかってしまった。不安なのだ。彼らの庇護者がいなくなってしまって。悲しいのだ。彼らのエプシロンがいなくなってしまって。どうすればよいのかわからないのだ、あの虹があまりに美しかったから。
 窓から注ぐ青い光が、彼女を際立たせている。白い服に影が落ちて、真っ青な色に見える。青い服着て少女が微笑む。
「私、必ずもう一度会うわ。」
 小さな子供たちが、いっせいに泣き出した。年長の子供らが、その背を撫でてやっている。しかし彼らの目にも、浮かぶのは涙だ。エプシロン。かなしい、かなしい。
 彼女だけ、強い決意を映したままの目玉で、じっと彼らを見ている。
「エプシロンの世界をつくるわ。」
 そこにきっと彼がいるだろうことを誰もが知っていた。虹のかかる世界、美しい都。誰も飢えず誰も乾かない、子供が銃を握らずすんで、子供が親を無くさず済んで、子供が喧嘩や怒られたりや転んだりや、そんな事以外で泣かなくていい。彼の夢。彼の頭の中にあった楽園。
「みんなで行こう、いつか、きっと。」
 きっと、と誰かが返した。きっと、きっと。

 ゆこう。ゆこう。ユートピアはどこにある?君が描いた未来はどこにあるのだ?
(そこで待っていてくれるわね?ねえ、)
 少女が微笑む。涙。どうか明日には虹を連れてきますようにと。彼女の神様はその虹の下に。遥かユートピアの彼方に。
 そこで微笑む彼に手を振ろうと思った。手を振って、駆け寄って、そうしたらだきしめてくれるだろうか。楽園の入り口で、彼は待っていてくれるだろうか。
 きっと、と誰かが答えて呟く。空には星が走り、虹が出ていた。
 エプシロン。いつかその虹を越えて。
「あなたに会う。」
 娘がおごそかに呟いた。楽園の印のその下で。



20090930