lost 。生まれる前から、彼の一部だった少女。 幼い頃からシリウスには特別彼女がかわいらしかった。 見目が、ということももちろんある。滑らかな黒髪に、透けるような肌をして、いつもシリウスにだけ、安らいだような親しみを見せる。大きな黒い眼。その目の中には花があった。内気で、おとなしく、聡明な。 彼だけの秘密の呼び名。。少しくすぐったそうに、呼べばはにかむ。 彼女が自身の片翼であることは、生まれる前からの決まり事で、シリウスという人間が、唯一、無条件で受け入れた他者からの強制。それを強制とすらおもわず、まるで最初から、そういう生き物に生まれついたとでも言うように。 当然のごとくシリウスは、物心ついた頃からに恋していたし、おそらく愛してもいた。決してそれを、名付けて口にしないだけで。 口にした端から、言葉は意味を失う。感情は色をなくし、形も、においも、その重要性すらも、失ってしまうと信じていた。 口にしないということは、伝わらないと同義では決してなく、それは確かに、には通じていた。少なくともシリウスは、そう思っていたし、彼女のほうも同じであったろう。 二人の間の不思議なテレパシーは、お互いにその想いを告げる。言葉とは違う言葉で、たがいが必要で、いとおしいと。 ―――おまえはわたしのいちぶ。はなれることのできない、どういつのもの。 そう信じていた。それこそが疑いようのない、真理に似た光。 それが家という、この世の矮小な単位のうちのひとつによって、決められたものだとはどうしても彼には思えないことだった。 が彼のもので、彼がのものであることは、それこそ本当に、この世界が出来上がった時からの約束としか思えなかったのだ。 だから失うことができるとは露知らず、彼はその家という単位を離れた。 そうしてなんと簡単でお手軽な、消失の過程。 彼は翼を片方うしなった。それもいとも簡単に、彼自身の手で。 家――彼の生まれ落ちたブラック家というものが、彼にはいつの頃からかどうにも我慢できぬものだった。彼のすべてを決め、型に嵌めて、矯正しようとする力。それが家だった。彼を過度に飾り立て、装飾し、枕詞のようについて離れない呪文。それが家だった。 最初の違和感は、ほんの些細なこと。 『流石はブラックの嫡男であらせられる。』 そのほめ言葉。 彼がどんなに難しい呪文を行使しても、彼がどんなに良い行いをして、彼がどんなに大人を喜ばせても。シリウスという個人に、その評価が下ることはない。"ブラック家の""長男"シリウスに、その評価は下る。彼が何をしても、ブラック家という単位にのみ、その結果がかかる。 家のためにと、両親が、額縁から見知らぬ祖先が、親戚が、合唱し続けている。 それが彼には苦痛で、たまらなくいらだたしかった。 彼自身に下るべき評価は、その絶対的な枕詞の前に、歪められ、まるで正しく機能しない。 小さな不満はあっという間に降り積もり、彼のよくできた頭脳は、次々に家の、大人の、その属する特殊な社会の矛盾や嫌悪すべき点を弾き出した。その工程が進めば進むほど、彼の中で家は価値をなくし、ただの重たいくさびでしかなくなり、邪魔な檻になった。 同時に彼は、家にとっても、その思想・行動・存在すべてをもてあますものになった。彼が家に苛立つのと同じように、家も彼に苛立った。 調和などすぐに、崩壊する。 だけが、花のように常に彼に寄り添っていた。それは決して、不快ではなく、彼のすさんだ心をなぐさめた。 家を離れる決心をしてなお、まだ彼は疑っていなかった。 自分との、約束の途切れないこと。 しかし違った。彼はと小指で契ったと思っていたのに、ちぎっていたのは彼の捨てた家だったというのだ。の家と、彼の家が、ゆびきりをした。彼は家の手を離れ、彼女は未だ、家の中にある。だから彼が、家を離れた瞬間に、つないでいた指先もまた、離れてしまった。 お互いびっくりして、目を丸くしている間に、こんなにも隔たってしまったのだ。 生まれる前から繋いでいた手を、離すことができるなんて思いもしなかった。 なのにこうして、わかたれてしまった。いともかんたんに。 けれどもまだ、実感がわかない。 俺の、俺の。俺の。 そしての俺だ。それになにか、違いがあるだろうか? 彼にはよくわからない。 婚約は解除された。しかし未だ、お互いがお互いのものであることになにひとつ変わりはない。そのはずなのに。 「…どうして?」 子供のように呟かれた言葉に、彼の弟は秀麗な眉をひそめた。 「あなたが家を出たからですよ。」 不機嫌とも取れる、しかし事務的な口調。 彼はその日わざわざ、兄を尋ねてポッター家の庭先まできた。全身を礼装である、黒いローブで覆って。 燃えるように鮮やかな緑の植え込みが、黒い兄弟を隔てていた。兄は茫然と弟の報告を聞き、弟は淡々と、報告をする。 「僕とが婚約します。」 弟があの少女に恋しているのも無意識に知ってはいた。 けれどそれでも。 おれの。 言い返そうと思うのに、怒鳴ってやろうと思うのに言葉が出ない。日が暮れる。植え込みは永遠に、兄弟を隔てている。弟の目。これは不機嫌なのではない、怒っている―――呆れかえっている―――。 なぜてばなした? そう言っている。 「馬鹿だ馬鹿だとは思っていましたが、」 耐えかねたようにレギュラスが口を開いた。とんだ馬鹿ですね、と言って、その黒い茶色の目玉を剣呑に細める。その目が兄を、上から下まで冷たく眺めた。 マグルのTシャツに、ジーンズ、スニーカー。 その口端が、あざけるように持ち上がる。 こんなもののために、兄はあの人を捨てたのだと、弟は思った。 どうしてこの兄は、周囲を傷つけずにいられないのだろう。父を失望させ、母を怒り狂わせ、肖像画の祖父たちを幻滅させ、外戚連中からは嘲笑され、婚約者を悲しみに追いやって、弟には後始末。 この男のためにあの美しい人の涙は一滴だってもったいないと、そう思うのに―――。 中庭で崩れるように、音もなく泣いていたあの人。 「これ以上あの人を泣かせないでください。」 清々する。目の上のたんこぶであった兄がいなくなって、おまけにずっと慕っていた少女が自分のものになる。 それなのにどうして、あなたは馬鹿だ戻ってこいと、詰ってやりたくなるのだろうか。 レギュラスはそんな心の内を微塵も感じさせず、ただ夜のように直立していた。 を泣かせた。 一方のシリウスは弟の台詞から知れた状況に今度こそ押し黙る。やっと自らの選択の意味を、その明晰な頭脳が理解しようとし始めていた。、俺の、俺の―――。 レギュラスの。 どこか遠くで誰かが言う。彼の大嫌いな、誰かさんが。 (喪失の過程) |