the Rose 「家を出なさいよ、!」 私応援するわよとクローディアが囁く。 誰もいない、真夜中の談話室だった。もうずいぶん長いこと、わたくしは、夜眠れないことが多いので、こうして暖炉の前で、燃える火を眺めている。それだけでだんだん心が落ち着いて、やがて眠たくなってくるのだ。ここ1年ずっとそうだった。 それを知っている友人たちは、ときおりココアやホットミルクの差し入れを持って、眠る前のお喋りにつきあってくれる。今日はクローディアだった。しかし彼女は、わたくしの隣に腰をおろすなり、興奮した調子でそう言ったのだ。 それにわたくしは、不安げに眉をひそめ、首を傾げた。 「なぜ?」 「シリウスをすきなんでしょ!もう卒業よ!このまま家にいたら弟くんと結婚させられちゃうじゃない!」 その言葉に彼女は、手の平に収まったカップを見下ろすと、困った顔をした。あたたかい紅茶の表面に、困った顔のわたくしが映っている。 「それは……できないわ。」 「なぜ!」 「なぜって、」 わたくしは茫然として友人を見上げた。 クローディアは心底意味がわからないといった表情で、わたくしを一心に見つめている。 「…あなたは家族がすき?たいせつかしら?」 そおっと尋ねた言葉に、彼女はきょとりとする。 「そりゃあ、たいせつよ。」 「わたくしもそう―――わたくしが生まれた時、母が死んだのよ。」 誰にも言ったことのないことを、そっと口に乗せる。はっと身を引いて、クローディアが黙った。続きを促すような沈黙。よくシリウスもそんな優しい静けさを作った。 こんな時ですら思いだすなんてと、自分自身がすこし奇妙でわらえてくる。 「父と兄は、それはわたくしをかわいがって、だいじに育ててくださった。おじいさまも、おじさまおばさまたちもそうよ。僕妖精たちもそう。みんなわたくしが幸せになれますようにといつも微笑んでくださっている―――。」 、。 そう呼ぶ時の父の、うれしそうな、どこかせつなげな微笑の意味を知っている。この名前は母の名前。 、おいで。 そう呼ぶ兄の目の、優しいことを知っている。母さまをわたしが兄さまからとったの、と大泣きして尋ねたことがある。自分が生まれたときに、母が死んだのを知った頃だ。そんなことはないよ、とまだ幼かった兄の大人びた優しい声音。そんなことはないよ、。かあさまは言ったよ。 「エドワード、お母様は遠いところへゆかなくてはなりません。だからわたくしの代わりに、あなたにかわいい妹をあげましょう。あなたが寂しくないように。たいせつにしてくれるかしら?」 僕はもちろんと答えたよ、、僕のたったひとりの妹。その声。 。しわがれた声と手のひら。目を見せておくれ、おまえの目は母親にそっくりだ、そしてその母親は、その母親―――おまえのおばあさまと同じ目をしておったよ。。わしの孫娘。安楽椅子に腰かけて、いつもおじいさまは懐かしい昔と孫たちに優しく目を細めていた。 やあ!大きくなった!おまえはじき、母さまに似てとびきり美人になるぞ!なにせ私の、自慢の姉だったのだから。そう笑って抱き上げてくださるおじさま。 、あなたのお父様もお兄様もとっても優しいし過保護だけれど、やっぱり女の人同士じゃないとわからないことってありますでしょう?だから困った時はいつでも、おばさまに梟を飛ばして頂戴。だいじょうぶ、おばさまはこう見えて、口は固いんですのよ。悪戯っぽく片目をつむって、笑うおばさま。 額縁の中の、遠い祖母、曾祖父、先祖たち。代々続くショパン家の、当主とその奥方、子供たちの絵。!!わたしたちの子。学校はどうだい?友達は?いじわるされてはいない?校長室に文句を言いにいってあげるよ、なに、歴代校長の中には友人がいるんだ。、シリウスはどうだい?、しあわせかい?たのしいかい? お嬢様!キイキイと高い声。デネブはいつでも、お嬢様の無事なお帰りとお幸せを、お祈りしているのでございます!なににお祈りしているのかといいますと、それはもちろん、奥さまにでございます! みな優しい。 シリウスは自分の家族のことを、いつからか飛びきり嫌悪していた。 わたくしは、とても、そうは思えない。わたくしは、彼らのことをあいしている。彼らがわたくしのしあわせを願うのと同じように、わたくしもまた、彼らの幸せを願っている。 ―――捨てるなどできない。 「捨てたりなんて、できないわ。」 いやいやと首を振るわたくしに、クローディアが泣き出しそうに眉を下げて、それからそおっとだきしめてきた。あたたかい。ごめん、と小さな声が聴こえて、それにわたくしは首を振る。 「シリウスのことがすき。シリウスのことがすきよ、でも、みんなが不幸になるのがわかっていて、みんなを不幸にするのを分かっていて、それでもシリウスと一緒に、わたくしが幸福になることなんてできないわ。できっこない。無理よ…わたしには、できない。」 ぽんぽん、とあやすようにクローディアの手のひらがわたくしの背中を撫ぜる。 「わたし、知っているわ。自分の家と、ブラック家が、どれだけ大きな家か、知っているわ。わたくしはショパン家の、たったひとりの娘だもの。今わたく―――わたしが何もかも捨てて逃げ出したら、どんなにか家に災いが起こるか、知っているわ。ブ、ブラック家は、闇の陣営の、筆頭家なのよ!」 小さな声なのに、悲鳴のようだと自分の声を聞きながら思う。 「きっと父さまも兄さまも、それがわたしの幸せならと言って、送り出してくれるわ。だからそんなことなおさらできない。わたしがいなくなった後で、どんなつらい、おそろしいことが、あの人たちに起こるのかわかっていて、行ってきますなんて言えない。」 「…もう何も言わないで、」 「クローディア、で、できない…わたしには、むりよ。シリウスのように、捨てられない。なぜシリウスがそうできるのかわからない!なにもかも投げ出して、そのあと始末を弟に―――兄に押しつけて逃げるなんて、」 「、」 痛々しいような声が、わたくしを呼んだ。しかし優しい、響きだった。 はっとして顔を上げると、クローディアの細い指がわたくしの頬を拭った。泣いてなどいないのに。 「泣かないのね、」 と囁いた声。赤みがかった茶色の髪。いつもよりずっと大人びて、優しい微笑をしている。目の周りだけ、泣き出す前のように歪んでいた。 「泣かないのね、。」 「…泣いたりなんて、できないわ。…しない。」 こわばって見開かれたまま、乾いたわたくしの目。目の中に花びらがあるわ、と驚いたようにクローディアは言って、母親がするように―――わたくしは本当に母親がそうするのか知らないが―――目蓋にちいさく唇を落とした。 「、すてきな呼び名ね。シリウスがあなたをそう呼んでたの、知ってたわ。私一度ずっと、あなたをこう呼んでみたかったのよ。」 くすくすとクローディアが笑う。 ポッターに呼ばれた時はあんなにも不愉快であったのに、今は不思議だ。こんがらがった感情が端から解けるように、安堵をおぼえている。 「あんたって、ほんっと箱入りのお嬢様で、大人しいし、守ってあげなきゃ系だし、のほほんとしてるけど、時々びっくりするほど意地っ張りで、頑固で、」 言葉に詰まったように、クローディアが言葉を区切る。 不思議そうに見上げると、情けないような困ったような微笑が降ってきた。 「強いわよ。とっても、とってもね。」 ぐしゃぐしゃ頭を混ぜられて、わあ、と小さく悲鳴を上げる。 「あんたこれから"わたし"って言いなさいよ。私そっちのほうが好きよ。」 「わたし、って言ってた?」 「気がついてなかったの?」 「は、はずかしい!」 それにクローディアが、明るく声を立てて笑い出した。思わずあわてて、今は真夜中、シイッと人差し指を立てる。慌ててクローディアも口を塞ぐのだけれど、ぷっと隙間から笑いが漏れてきて止まらない。そうしたらわたしの口からも小さく笑い声が漏れてきて、大きな声を出さないように、笑いを止めるのにふたりでずいぶん苦労した。 (ばらのはなのおんなのこ) |