his two myths



 が部屋にいない。
 ポッターに担がれて浚われてったとどこか憮然と呆れたように、しかしおかしくて仕方がないようにほんの少し笑みを浮かべて、それからレギュラスにごめんと本当にすまなさそうに謝った彼女の同室の魔女たちに礼を言い、彼は広い校舎を早足に歩き回った。
 ダンスフロアとなった大広間へ急ぐ、女子たちの華やかな笑い声。それからあまやかな視線をきれいに無視しながら、彼はひとつの花だけ探して歩いた。
 なんとなく、どんどん人通りのない、静かな方へ足が向かう。
 その歩みが止まったのは、ずいぶん寂しい校舎のはずれだった。大広間から少し外れた、空にせり出したバルコニー。夜空を背景にして、踊るシルエットがある。それはどこか、神話のように遠かった。
「…兄さん、」
 ぽつりと無意識に、兄を呼ぶ言葉が出た。
 影の形だけで、いいや、それを見る前から―――レギュラスにはわかってしまった。それらが誰であるのか。
 踊っている、ふたりの影。ドレスの裾が、空に静かに靡いて、おだやかな夜の気配。ダンスフロアの喧騒はどこか水底に置き去りにしたように遠く、ただ、静かに静かに、星を撒き散らしながらふたりが踊っている。そんな雰囲気を出せる男女を、彼はひと組しか知らない。そうして同時に、とてもよく知りすぎていて、そのことが彼をどうしようもなく無力にさせた。
 大きな声をあげて、この静寂を切り裂き、の手をひいて、兄に冷たい一言を浴びせた後に、振り返ることなく彼女を連れて去るべきシーンだ。
 兄になにか文句や不平を言う権利はひとつもなく、彼にはそうする権利があった。
 しかしレギュラスに気付くはずもない、ふたりは踊っている。
 月明かりの逆光で顔は見えない。しかしレギュラスには手に取るように見えた。ふたりのやさしい、ものしずかな微笑。騒々しく、乱暴ですらある彼の兄が、唯一凪いだしずかな表情を浮かべるじかん。それはいつも、ふたりが共にある時のこと。
 踊っている。
 目が離せなかった。足は動かず、声もでない。いいや、ちがう。
 はなしたくない、うごきたくない、なにも、なにもはっしたくない。この静かな優しい、懐かしい世界壊すものすべて。
 噫、と心の中で彼は嘆息する。

「いいの?王子様、お姫さまをあのままにしといて。」

 立ちつくす彼の背後に、何時の間にあらわれたのか。
 ポッターの言葉に耳も貸さず、じっと唇を噛んで、レギュラスは踊るふたりを見つめていた。
 うつくしいふたり。

 いつもそう。いつもそうだった。
 いつも、いつでも、ふたりのいる景色は美しい。
 その光景をあいしていた。
 兄には焦げるような羨望と嫉妬と憧憬を、彼女には切ないような羨望と親愛と憧憬とを抱えて、それでもやはり、ふたりは絶対だったのだ。完成された景色、彼だけに優しかった、二人の幼神。
 二人のいる景色は、いつまでもいつまでも眺めていたい気持ちになった。
 二人がいる庭ばかりが、鮮やかに優しい、色を暗い屋敷で保っていた。

 もう見られないと、清々しながらどこかで惜しんでいる、その景色が目の前にある。

 踊るふたり。
 翻る翻る、淡い藤色のドレス―――彼が送ったものが色を変えているのだとすぐに気がついた。
 彼女にその色が一番似合うことなどレギュラスとて知っていた。彼女の母親と同じに一等似合うと、父親に褒められた色だからだ。それでも黒を送るのがレギュラスで、似合いの色を送るのがシリウスだった。そのシリウスの指先が、おろしたままのの髪に触れる。
 ふたりがいる美しい景色。

 それは今も変わらないのだと、どこか遠く遠くで、冷静に判断する自分がいる。
 たとえふたりの婚約が解けて、今彼女と婚約をしているのがシリウスではない男でも。関係なかった。どうしてこんなに変わらないのだろう。ここ2年、二人が接触した様子などほとんどないのに。
 どうして。
 ふたりに言葉は必要ない。そうあるように生まれついたから。
 だから自分は言葉を十全に十全を期して並べ紡ぎ送らねばならない。彼の思いは言葉にして、形を与えなければ伝わらないもの。
 ―――あなたをあいしている。
 兄と彼女なら目と目を合わせるまでもなく繋がった共通の共有の意識。けれどもそれを彼が伝えるために、いったいどれだけの時間と労力をかけねばならぬことか。
 それだけではない、どうやら二人には、言葉も、時の経過すらも、関係のないことらしい。
 そんなことどこかで知っていた。
 彼は最初からわかっている。

(僕はひとりで勝手に踊っているだけだ、)

 誰よりもわかっている。
 損で不幸な役回り?兄が両親の望むような生き方をしていれば、すんなりと諦められたものを。兄がこうでなかったならば、絶対にチラリとも、自らの手に入るのではなんて考えもしなかったのに。
 自由とやらの代償に、彼はなにより尊いものを捨てたのだ。
 それを拾うのは、レギュラスの役目であり、たったひとつ許された自由でもあった。
 ずっとあこがれていた、ひとりの少女。
 あいしているからあいしてほしい。見返りを望むのは人の愚かさだろうか?愚かでも構わないと彼は思った。手折ること叶わないうつし世のまぼろしであったあなた。それが手に入る。それでも所詮はまぼろしか?そんなはずはない、彼女は生きて血も通ってここにいるのだ。
 兄の代わりになれる気もなる気も彼にはまるでない。ただ、の中に、レギュラスという存在を固定したいだけ。僕だけを見てなんて言わない。彼は煩悶する。あなたがシリウスなしに成立しない存在であることも知っている。
 だからただどうぞ。
 ―――あなたをしあわせにするのがじぶんであれば。
 それは彼自身のためでしかないのだ、と、彼は分かってそれでも祈らずにいられない。
 兄にはそれができないと知っている。知っていた。
 二人であるだけで二人がしあわせであれることも、同時に知っている。


「…今日だけ、」

 その言葉にポッターがおもしろそうに眉をあげた。
 噫なんと忌々しい男だろう。すべては他人事、だからこそこんなにも楽しい。すべては自らの影である友にかかわる自分ごと、だからこそどこまでも介入してくる。忌々しい。
「今日だけです。」
 真黒なローブを翻して、彼はテラスに背を向けた。
 いまだ踊り続ける二人に。

「へえ?余裕だね。」
 噫ほんとうに忌々しい。
 一度彼は振りかえった。二人ではなく、ポッターをにらむそのためだけに。
「余裕なものか。」
 その言葉に、ポッターはきっと彼が気づかないくらいやわらかく微笑んだ。…楽しいのだ。

「…余裕であるはずなものか。」

 苦い。
 苦いと思った。それでもこれが、彼の選んだ―――選ばざるをえなかった道。それでもあの花の少女が手に入る。それだけが、確か。






(かれのしんわ)