call her name



 ごめんなさいと言う最初のひとことが、おそらくは最も彼を、苛立たせたのだと悟ったのはその言葉を発した後のことだった。

 ダンスパーティーに共に出席できなかった理由を述べ、謝罪をしなければならないと、わたくしはそう考えていた。なぜ連絡のひとつも寄こさずにいなくなったのか―――クローディアたちが少し説明してくれたらしいとは言え、わたくしにはきちんと報告する義務があると思った。それはもちろん彼の婚約者であるからだし、彼に対する誠意でもある。
 わたくしはあまりに、レギュラスに対して、"婚約者" だけの関係を求め過ぎていた。
 当然彼もそうであると思い込んでいた―――自分がそうであるように。弟のようであった少年を、唐突に婚約者として愛せと言われて、そうできるものではないことくらいわかっていた。しかし、"婚約者" として、節度と誠意と、親しみのある関係を気づくことはできると、自分自身気づかぬうちに、ひどく割り切った考え方をしていた。
 それはあまりに淡白で、それから彼とわたくし自身のことを、省みることのない浅はかな考えだったのだと、わたくしはいまさらながらに思い知る。

 梟での呼びだしに、彼は快く応じた。
 使われていない教室で、夕食も済んだ後で。わたくしがその部屋へ約束の時間よりすこし早目に入ったときには、彼はもう机に座り、魔法でともした明かりで本を読んでいた。わたくしに気がついて顔を上げ、少しだけ微笑むと、本を畳み眼鏡を胸元のポケットへ戻した。洗練された大人のような仕草を、するようになったと、わたくしは他人事のように思った。待ちましたかという言葉に対して、いいえと彼は穏やかに答えた。
「何のようですか?」
 わかっているだろうに、レギュラスはそう尋ねた。
「…ごめんなさい。」
 そう頭を下げた瞬間に、彼の顔が悲痛に歪むのが見えた気がしたが、返ってきた声音は変わらなかった。
「…なんのことです?」
「クリスマス・パーティーのことです。せっかくあんな素敵なドレスまでもらったのに、一緒に行くことができなかった…ほんとうに、ごめんなさい。」
 顔を上げる。
 先ほどチラリと見えた表情が嘘かと思うほど、彼は無表情のままでいた。

「…兄といたのでしょう?」

 ハッと何か言いかけたのを制して、彼が言葉を続ける。
「ポッター先輩に聞きましたよ。君の婚約者は我々が拉致した返してほしければ一晩待て、とかなんとか。」
 くしゃりと顔を歪めて、彼が首をかたむける。わたくしはなにか、言おうとし、しかし言葉が見つからない。レギュラスは、どんなことをポッターに聞いただろうか。
「…ごめんなさい、」
 ―――あの晩。
 ダンスの曲が静かに途切れると同時に、シリウスの手も離れた。ふわ、とこめかみを、口端が触れていった。おやすみ。シリウスの口がそう言った。泣き出しそうな顔をしていた。おやすみ、。そう言って。いつの間にかわたくしの足は、寮に向かって歩き出していた。まだダンスの余韻が、魔法が、自らを包んでいるようだった。
 何もなかったのだと言いかけて、はたと口を止める。
 なにもなかった?
 いいや、わたくしはレギュラスとのダンスの約束を破った。そうして差し出されたあの人の手を拒むべきと知りながら、その手をとって、踊った。うつくしいドレスをよく似合うと褒められて、とてもしあわせだとおもった。
 これは裏切りだ。まぎれもない、うらぎり。
「レギュラス、」

「…あなたはなぜ、僕に謝るんです?」

 その言葉に、首を傾げると、初めて彼は、わたくしの見ている前でどこか怪我をしたような顔をした。
「レギュラス?」
「あなたは、なぜ、僕に謝るんだ?」
「それは、」
「僕があなたの婚約者だから。」
 そうでしょう、と彼は言った。
 疲れたような、響きをしていた。
「…わかっている、つもりです。つもりなんだ。僕は。これでも、ずいぶんと…、」
 そうしてしばらくしんとした。いたたまれないような沈黙だった。

「あなたは僕に謝った。そうしてこれから、どうするつもりです?」
 謝って、許しを乞うて、それで?
「あなたが謝れば、僕はきっと何度でも許します。ただ、もうしない、と言うつもりなら、言わないでほしい。」
 彼は一度前髪をぐしゃりと掻きむしり、それからわたくしを見て言った。
「あなたは一体何をした?」
「レギュ、」
「あなたが一体なにをしたんだ?好き合っていた男と家の都合で別れさせられて、それまた家の都合で新しく婚約させられた男との約束を破って、ほんの一晩、その男とダンスを踊る、それの、どこが、悪いんだ?どうしてあなたは、それを悪いと、すまないと僕に言うんだ?ねえ、」
 姉さま、といつか言った子供がいない。レギュラスが兄を男と呼んだ。そうして自らのことも、そう称した。わたくしは急に、心細くなって後ずさり、その距離をレギュラスが詰める。

「あなたは本当に、僕にすまないと思っている?」

 その目が恐ろしかった。
「あなたが僕に謝るのは、僕があなたの婚約者だからだ!あなたの行いが、婚約者としてふさわしくなかったから、そのことに対してあなたは謝罪してくれているに過ぎない!」
 その通りだと思った。その通り過ぎて、そうしてまだわたくしには、なぜそのことでこんなにもレギュラスが恐ろしくなってしまったのかがわからない。レギュラスとわたくしは、家の決めた 『婚約者』 だ。だからわたくしたちは、そのようにふるまわなければならないし、そうあるべきだ。
 シリウスとのときは、意識せずともできたことを、わたくしはずいぶん注意深く、忠実に行ってきたつもりだった。
「わかっているんだ、あなたがどんなに心を砕いてそうしてくれているのか!わかってるよ!だから僕は、ずっと、ずっともうこのままで、我慢できると思ったのに―――!!」
 謝ったりするから、と最後の声は悲鳴のようだった。両手で顔を覆って、彼は蹲る。
 我慢。彼はそう言った。
 嫌だったのだろうか、ずっと。我慢、していたのだろうか。
 ふいにわたくしは気がついた。今まで泣いたのはわたくしだけだと思っていた。ひょっとしたら、レギュラスにも、わたくしにとってのシリウスのような人が、いたのだろうか。

「レギュラス、」
「……僕に優しくしないで、」
 触れようと伸ばした指先がためらった。呻くような声はしかし少年の頃と違い当たり前に低かった。
「レ、」
 その目がふいに、指の隙間からわたくしを見る。やはり怖いと思った。初めて向けられる感情の種類だと思った。こんな必死な目をわたしは知らない。息が止まるような、この強い力を知らない。

「…あなたをあいしている、」

 一瞬その言葉の意味がただしく脳内に反映されなかった。
 一拍置いて、わたしは自らの愚かさを悟る。それはなんと、絶望に似た過程だったろうか。"わたくしにとっての、シリウスのような人" そう考えた自分の浅はかさは、なんと愚かで、なんと、なんと―――。
 金縛りが、解ける。
 後ずさろうとしたわたしの肩を、レギュラスが掴んだ。ひどく痛い。なんと強い力なんだろうか、とどこか遠くでわたくしは思った。ギチギチと音がするようだと思った。この痛みが、レギュラスの痛みそのままであるように思った。
「逃げるな!!」
「レギュラス、」
「あなたを愛している!もう、ずっとずっと昔から!だからあなたがシリウスを好きでも、それでも構わないと思った!そう思っている!あなたが望むように、婚約者として、あなたに向き合おうと、そう思った!…だのに、だのにあなたは!」
 言葉が直接、頬を叩いた。いつの間にかわたくしの体は強張って、目をそらすことすらできない。レギュラスの目の中で、星が燃えている。あまりに苛烈な焔を上げて、燃えている。射すくめられたら最後、そのまま燃え尽きてしまうような、真っ白な凄烈な炎だ。
「いっそシリウスと逃げてくれればいい!」
「そんな、…できな「ならばいっそ僕を嫌って恨んでくれればいいんだ!」
「…どうして、」
 レギュラスの言葉はもはや繋がらず、支離滅裂ですらあった。それでもなにか、心に直接たたきこむような言葉だった。
 それがすべて、彼の本音であるからだ。
 逃げることも嫌うこともできない。そんなことはできないことくらい、レギュラスが一番知っているはずなのだ。なぜならわたくしと彼は、同じなのだから。恋しい人のほかに、それと同じくらい大切なものがあることを知っている。そうしてそのどれもを、捨てられない。どれか一つを選ぶのなら、傷つく人間が少ない方を、選ぶ。
 レギュラスとは、そういう人間だ。
 昔から、聞きわけのよい、わがままを言わない子供だった。
 しかしわたくしは、知っていたはずなのだ。そのよい子の顔の下で、彼がどれだけ苦痛に耐え、じっと黙って困難の行き過ぎるのを待ち、努力を重ねてきたのかを。
 こんな風にレギュラスが、自らの感情を曝露したことが他にあったろうか。

「あなたは誰も愛しちゃいない!」
「そんなこと、」
「ではシリウスをあいしていた!?ならなぜ僕と婚約したことに表情ひとつも変えず怒りすら見せず―――庭で泣いたくせに!どうして婚約を受け入れたりするんだ!?僕をあいしてもいないくせに!ただあなたは婚約者として立派に務めようとしているだけだ、僕だって、あなたとシリウスがどんなにか―――知ってるんだ、だから、それで、それで…―――満足していたかったのに。」
 謝ったりするから。
 ようやく彼の、叫びがくたびれたように止まった。いつの間にか、レギュラスの瞳から涙が落ちていた。掴まれたままだった肩が、漸くこわごわと解放される。
 大きな手のひら。
 シリウスとそんなにかわらないと思った。
 まだ炎の残滓を残した瞳が、痛ましげに見下ろしている。その目は、後悔と、悲嘆と、それから諦めと、それでもなおどこか縋るような、違う、凛と気高い色をして、力強く輝いていた。いったいどれだけ、知らぬ間にわたくしは彼を傷つけたろうか。いったいどれくらい、この優しい人は感嘆に値する忍耐力で、それに耐えたろうか。そういえば幼い頃からずっと、わたくしはこの人の涙というものを見たことがない―――。
 ―――この人はわたしをあいしている。

「…あいしてほしいのですか。」

 ぽろりとなにも思わず言葉が出た。
 彼は目を見開いて、それから絞るように呻いた。
「…ぼくは兄にはなれません。」
 その目から大きなしずくが落ちた。わたくしはそれを、とても尊い宝石のように思った。
 両手で受けるとあたたかく、目の奥が熱くなる。
 わたしは今まで、こんな風に誰かから思われたことがない。
 兄のようになんて言わない、代わりになれるとも思わないし、代わりにしてほしくもない、兄のような"特別"でなくていい、ただ、家族にするように、いいや、できるなら、恋人にするように、この世でたったひとりの人に、なれなくてもいいから。
 ずるずるとレギュラスが膝を付いた。息が白い。この教室はずいぶん寒いことに、初めてわたくしは気がつく。いったい彼はいつから、本に目を通すふりをして、ここで待っていたのだろうか。

「…ならなくていいのです。」

 そおっとその頭を抱きしめた。レギュラスがくしゃりとわらった気配がした。おそれるように、すがるように、控えめにおっかなびっくり背中にまわされた腕が、かわいらしいと思った。
「レギュラスのままでいて、」
 彼をだきしめるうでに涙が落ちた。

 ――噫、そうか。
 ようやっと気がつく。
 ダンスは終わった。
 まだ踊り続けているようなきがしていた。

、」
 レギュラスが呻く。
、ごめんなさい。ごめん、でも…でも、僕は、」
 僕だけを好きになってなんて言わない。抱きしめる腕が、肩が震えていた。
 かわいそうな人だ。
 もう一滴なみだが落ちる。
「あなたがすきなんだ、」
 かわいい人だ。
 涙。うたうように、外へ。幼い頃花で編んだ輪の外へ、わたくしを連れてゆく。かわいい人。優しい、優しい。やさしいひとだ。ほろりと涙が落ちる。夜の教室は静かで、暗く、色のないわたくしにはほとんど冷たく真黒に見えた。

 ―――シリウス。

 これが最後。
 音もなく囁く。



(なんじあいするもののなをよべ)