thunder storm


 中庭までの道を、シリウスは無言だった。わたくしはただ、その広い歩幅について歩くのに一生懸命だったので、この奇妙な苛立ちと不機嫌さとに、口をつぐんでいた。静かだった。ふたりの間に、こんなにも気まずい沈黙があったことなぞついぞない。
 誰もいない庭のはずれまで歩くと、シリウスはわたくしを振り返った。
 その様子を、わたくしはなるべく背筋をまっすぐにのばし、まっすぐに見る。
 しばらく彼は、わたくしを見、それから共に行こうと、そう言った。
「シリウス、」
 どこへ?と問うほどわたくしはおろかではなかった。
 その言葉の意味を察すると同時に、ずっと胸に溜まっていた苛立ちが、怒りへと姿を変えて鎌首をもたげるのがわかった。怒りは蛇に似ている。どこに噛みつけば、怒りの対象がもっとも傷つくか、虎視眈眈と狙う獣に似ている。

「シリウス、わたくしはあなたとは行けない。」

 それが一番簡潔で簡単な、シリウスの急所を貫く言葉だと、わたくしは知っていた。
「…なぜ?」
 傷ついたように、その答えが信じられないように、シリウスが常からは信じられないような弱気な様子で囁く。それにまた、ムクリと怒りが肥大するのを感じた。
 自分、ばかりが、傷ついたような、顔をして。
 わたくしはようやく、レギュラスの言う言葉を実感として理解する。
「あなたと行けば、たくさんの人を傷つけることになる。」
「それで家の言うことをきいて、レギュラスと結婚するって?お前に自分の意思ってものはないのか?」
「あります。だから行かないの。」
 それに初めて、シリウスは怯えるような目をした。
「…俺を捨てるの、」

「捨てたのはあなたよ、シリウス。」

 最大級に、いらだたしかった。
 どうしてこの人は、こんな簡単なことに気づかないのだろう。
 わたくしの視線に、シリウスの瞳のなかで、不安や怯え、弱気が次第に怒りと戸惑いに変わって膨らむのを見る。この人は馬鹿だ。
「このままあの家に入ってどうなる!お前の大嫌いなおぞましい宴を率先してやるような家だぞ!」
「レギュラスは結婚したからといってすべてブラックの慣習に従わなくていいと言ってくれます。わたくしはあの宴にはでません。」
 きっぱりと述べる。
 わたくしの怒りは内側から燃えて、熱く、しかしその表面は自分でも信じられないほど冷えていた。逆にシリウスの怒りは、内側はつめたく寒さに凍えて、それを守るため表面だけがカッカと燃えていた。そのさまがわたくしには手に取るようにわかるようだった。大きな怒鳴り声も、肩を掴むてのひらも、なにもこわくないとすら思った。
 この人は怯えている。
 初めて自分の思い通りにならないものを、いらないと切り捨てられないことに驚き、怖れ、慄いている。
 今まで思い通りにならないものは、すべて捨ててきた人なのだ。そんなものが、あることにすら気付かぬように、気に入らない、それだけのことで、あらゆるものを捨て、ただ、自由に。
 この人がしあわせであるのなら、自分は草花のように黙っていれば、それでいいと思った。
 しかしそれは、あんまり拙い、狭い情愛の示し方であったのだといまになってわかる。

「なぜだ!!」
 なぜわからないのだろう。なぜわたしが、この人に責められなければならないのだろう。
 しかし彼が理解を示せない原因は、わたくしにもある。わたくしはもっと早くに、言うべきだったのだ。あなたのしあわせが、なにか。あなたのいう、あなたの、あなたのためだけのしあわせのために、泣いたり、捨てられたり、殺されたり、壊されたり、失われたりしているものが、いったいどれだけあることか。
 気づかぬふりをしていたのは、わたくしも同じだ。
 レギュラスがあんな風に泣いて叫んで、心の内を切り開いて晒すように声をあげるのを、きっとこの人は知らない。

「わたくしには家族も、レギュラスも置いてはいけない。あの子は今度こそ、ひとりぼっちになってしまう。」
 シリウスが爆発した。
「お前はまだあいつを弟だとでも思ってるのか!」
 この怒りだけは、先ほどまでのものと質が違うと思った。
「シリウス、」
 肌をビリビリ震わせるように、シリウスが怒鳴る。初めて怖いと思った。

「お前はその"弟"に抱かれるんだぞ!!」

 それはなんと、身勝手で、わがままで、乱暴で、自分勝手な言葉だったろうか。
「しかもその弟は、ヴォルデモートの崇拝者と来てる!」

「…ではどうしろというのです!!」

 生まれて初めてわたくしの発した、大声であるに違いなかった。
 右の目玉から、同時にぼろりと涙が落ちた。あつい。なみだがこんなに熱いとは知らなかった。
 シリウスがびっくりして、目をまるくしている。
、「 "その" 状況をつくったのは!あなたでしょう!」
 ぼろぼろと、とどまることはない、涙は、いままで呑み込んでいた言葉の数だろうか。大きくて重く、あつく、しょっぱい。
「あなたはわがままで、自分勝手で、さ、さいていの、人です!」
 シリウスが目をまるくしている。きずついているのだ。噫もっと、傷つけばいい。自分がどんなにか、どんなにか他人を傷つけているか、彼はひとつだって知りはしない。
「あなたが出ていかなければ、こんなことには、ならなかった!」
「あれ以上耐えられるか!?あんなところにいて!」
「あなたは!」
 ぼろり。視界が歪む。

「それでもあなたは!耐えるべきでした!」
 その言葉に、今度こそシリウスは言葉を失ったようだった。
 銀の目。ねえどうして。いつも問いかけていたのに彼は気づかなかった。どうして?ねえ、どうして?なのにどうして、あなたは自分ばかりが傷ついたような顔をして。
「あなたはいやだ嫌だと駄々をこねて、逃げ出しただけです!ブラックから!」
 そうだ。そうしてあなたは、わたくしからも逃げたのだ。
「あの家風がそれほどに嫌なら、あなたが残って当主になって、変えてくださればよかった!わたしにだってお手伝いできたのに!」
「あいつらが人の話を聞くようなやつに見えるか!?凝り固まった純潔主義とブラック主義の塊だ!話す価値もない!!」
「それでも対話を、あきらめるべきではなかった!!いいえあなたは対話しようとすらしなかった!」
 考えるより先に言葉が出たが、それらすべて真実だと思った。
 一度だって、わたしが彼を裏切ったことがあったろうか?
「確かにあなたは、あの家の気風とは合わず、またそれを嫌悪し、忌み嫌っている!けれどあなたは、それを変革することも、できたはずなのに!」
 彼はそれら一切の面倒を放棄したのだ。
「あなたにはそれをするだけの力と、生まれ持った才能と、それから権利があった!」
 すべて、すべて弟に押しつけて。
「けれどあなたは逃げたのだわ!すべて面倒くさいと言って捨てて、すべて弟に押しつけて!どうしてあなたにはわからないのですか!あなたが捨てたのは家だけではないわ!あなたが裏切ったのは血でも家でもない!あなたが捨てたのは血の通った人間です!!」
 それきり中庭はしんとした。

「あ、あなたに、家を出ることを勧めたのはどなたです、」
 喉がひきつった。こんなに長時間、大きな声を出して、怒ったことがかつてない。
「だれですか。ポッターね。わ、わたしそれなら、一度ブン殴って…!」

 握りこぶしを作って、ふらふらと歩きだしたわたくしに、シリウスが 「おいおい!」 と目を丸くしたまま手を伸ばした。右手が左手を掴むとひっぱり、引っ張ったシリウスもひっぱられたわたしも、予想していないほどにおぼつかなかったわたくしの足元は、あっという間に滑って転倒した。
 ぐえ、とシリウスの、蛙がつぶれたようなうめき声。
 シリウスを下敷きに助かったわたくしは、それでも起きあがる気が起きなかった。
 体中が怒った余波でかっかと熱く、それでいてぐったりとしていた。怒るというのは、かくもエネルギーを消費するものなのか。涙だけがつかれることを知らず、ぼたぼたと流れ続けている。
 シリウスもまた起きあがる様子をみせず、芝生に転がったまま、ベッドに寝ころんで人形にするように、わたくしの体にぎゅっと腕をまわした。あんまりにも色気のない仕種。頭の上にシリウスの顎が置かれる。
 もし人が通りかかったら、ぎょっとする光景だろう。芝生の向けにあおむけに倒れたシリウスの上に、わたくしもあおむけに、倒れている。ふたりの目は空を向いている。
 色のない目にも太陽はまぶしい。シリウスにはどうだろう。

がわたし、っていうの、久しぶりに聞いた。」
 ようやくシリウスは、ぽかんとそう言った。
「…そう、ですか。」
「ああ…まさかがブン殴るって単語使うとは思わなかった。」
 少しくたびれたような、あっけにとられたような笑い声。
「は、はじめてつかい、ました。」
 まだ息が落ち着かない。
 落ち着かせるように、シリウスの腕がわたくしの腕を何度かやわらかくたたく。子守唄のリズム。
「ブン殴るの?」
「ブン殴り、ます。」
「ジェームズを?」
「やはり、ポッターですか!」
 いざ!と立ち上がりかけたわたくしをそのまま抱き止めながら、 「やべ、藪蛇。」 とシリウスが笑った。先ほどわたくしに怒鳴り返した鋭さは、もはや霧散し、どこにも感じることができない。
「怒ってるとこ初めて見た。」
「はじめて、おこった、から!」
 どうどう、とシリウスがなおわらう。
「ブン殴るの?」
「ブン殴る!」

「…そうか。」

 背中で、うれしそうで、さみしそうな、シリウスの笑う声がした。
 ―――噫、
 それを聞いて、わたくしは初めて思う。
 この人をあいしている。
 そうしてそれだけがすべてではないことも。
「そうです。」
 答えながら、ほんの少し、右目から涙が出た。でもきっとシリウスは気づかなかっただろう。レギュラスの顔が、目蓋に浮かんでいる。あの人、わたしを愛していると言った―――。シリウスの腕。
 もはや二人ともなにも言わなかった。
 空ばかりが明るい。






(いかづちのあらし)