tender night arms



 暗闇のなかで、彼は目だけ開けて息をしていた。
 涙が出そうだと思いながら、それでも涙はでなかった。
 彼は死ぬことにしていた。
 というよりもおそらく、きっと生きては帰れないだろうと当然のように思っていた。命を賭す以外に、"あの人" に一矢報いる術があるとは思えなかった。
 心酔していた―――わけではない、と思う。ただそれが家の方針だった。"あの人" は何物にも動じぬ、巨大な力の塊だった。運命の輪すら、自在にねじ曲げてなお嘲笑していた。その強靭さに、確かにあこがれてはいただろう。しかしそれも、もはや過去のこと。
 彼は思考する。ひとりでなにができるかを。家族や、友人や、。自分の周囲を取り巻く人々を巻き込まずに、一人でどこまで足掻けるだろうかと考える。彼は決して、誰かに救いを求めようとは思わない。それが彼の、矜持である。ブラック家のふたりめの嫡男としての、プライドである。レギュラス・ブラックと言う人間の、気高さであり愚かさである。
 そうして彼は、ひとつ方法を見つけた。
 ―――だからここに来たのだ、最後の暇乞いに。
 敷布の中はあたたかい。どこか懐かしいような、気持ちさえする。
 彼は暗闇に目を凝らしたまま、自分の決めたこと、それから後のことについて考えていた。
 僕がいなくなったあとで―――。
 彼は想像する。
 この人はほんのちょっとだけでも僕のために泣いてくれるかしら。
「……愚問だ、」
 小さなちいさな、独り言が漏れる。
 これでいい。そう、これでいいのだ。
 眠っている人の目蓋を眺めて、それからまた、部屋の隅の暗がりに目を戻す。
 僕がいなくなったあと、きっと彼女にどんな困難が訪れても―――彼の人が彼女を護るだろうと実際に見るまでもなく思った。そういう風に、二人が生まれついていることを、彼は誰より知っていた。
 あの人に任せれば安心だ。
 言い聞かせるように、彼は手のひらで少し冷えた自らの頬を摩る。
 あの人に任せれば安心だ、あの人にはなくすものも恐れるものもなにもないから。ほかの何者も気にせず、彼女だけ守るだろう。
 そこまで考えて、彼はついに、顔をくしゃりと歪ませる。
 噫、そうだ今なら、どんなにかあの人が彼女を大切にしていたかがわかる。
 婚約を解消されてからというもの、女をとっかえひっかえ浮名を流したあの彼が。わかっている、知っていた。それすらすべて、この人のことが大切で無二だからだのだ。

 たまらなくなって目蓋を閉じると、なにかがぼんやりと、浮かんでくる。
 ―――なにが?

 ふいに彼は思い出した。美しい景色だ。

 兄とが、ブラック家の花園を二人並んで歩いている。二人の髪が風になびいて、花と同じに揺れる。遠くかすみがかったような、在りし日の記憶。の淡い藤色のドレスが空に舞う。噫、違う、これはダンスパーティーの記憶?しかし花が咲いていて、空は真っ白な光模様。
 記憶は混沌として、混線しているようだった。近い過去と遠い過去が、混在している。
 遠くから眺めていた彼に気付いて、兄が顔をあげる。
「レギュラス、」
 力強い声が、彼を呼んだ。
 はやくこっちにおいでと呼んだ。隣でも手を振る。
 おいで、おいで。
 幼い彼はそれがうれしくてうれしくて―――。


 パチンと明りのスイッチを捻るように、記憶はたち消える。
「―――― …噫、」
 レギュラスは思わず顔を押さえて蹲った。
 どうしていつも、そうなんだろう。
 兄よりもずっとうまく、ずっと大切にするつもりだった。なのにいつも、後から思い知らされる。あの人の愛には敵わない。
 それを言えば、きっと兄は言うのだろう。
 愛だの、恋だの、馬鹿馬鹿しい。俺はそういう言葉が、この世で一等苦手なんだ。
 そうしてきっと、この人は言う。
 それはひとそれぞれで、勝ったとか負けたとか、どちらがより深いか浅いかだとか、比べられないものだと思うのです、と。

 それでも。と彼は思う。
 それでもやっぱり違うじゃないか、どんなにあなたが僕をあいしてくれたって、それはシリウスに向かうあなたの感情のあのやさしいひだとは、違うものじゃあないか、と。ないものねだりなのは知っている。それでも、彼は、この人の太一の絶対になりたかった。

 どうしてだろう。
 あんなにも、いやこんなにも望んで渇望してきたものだのに。今だってほしいほしいと心が呻いている。なのにこうして彼女の愛を与えられて、なのにどうして、兄からその人を奪ってしまったという罪悪感ばかりが浮かんでくるのか。
 そんなのわかりきっているよと、背中で幼い彼が言う。
 ぼくはね、にいさんといっしょにいるあのひとがすきだったんだ。
 そんなことは知っている。そうして彼は、兄になりたかったのだ。あの人の隣にいて、それが当たり前に享受できる兄そのものに。
 けれど胸を占めるのは罪悪感ばかりではない。
 ほんの少し、ほんの少しばかり、親しみのこもった意地悪な顔が浮かぶ。

 ―――兄さん、
 瞼の裏に兄が浮かんだ。それに向かって、彼は少しばかり得意気に笑いかける。
 あなたより先に手に入れた。
 しかし次の瞬間、彼はやはりその笑みも消してその象に縋りついて泣き出したくなるのだ。兄さん、兄さん。なぜ手放した。なぜこの人を手放したのだ。どうしていつもそうするように、さっさと浚っていかなかったの。どうして僕の目の前に置いていった。どうして幸福なのにこんなに苦い?
 僕はどこで間違えた。
 虚無だ。
 ダラリと力なく垂れた彼の手に、ふいにぬくもりが触れた。
 暗闇の中に浮かんだその人の真っ白な腕を、手のひらを、指の先の形を、ふいに思い出す。
 暗い夜の海の中で、迷う船を導く星のように、内側から発光していた。
 その手が彼の手をそっと握っていた。
 やさしい寝息。
 彼がずっと欲しかったものだ。
 かの人は眠っている。
 彼はようやくほっとした顔をして、それから少し、その手のひらにくちびるを寄せた。





(やわらかな夜のかいな)