on my colorless garden



 屈辱だと思った。
 自ら捨てた家のほか、今彼が身を寄せることのできる土地がないのだ。
 ―――結局ここに、帰ることになるのか。
 黒い屋敷を見上げて、彼は喉の奥で苦々しくわらった。ここにだけは帰るまいと、心に決めてこの家を出たはずなのに。まるで生まれながらにかけられた呪いのように、この暗い色をした屋敷は彼から離れてはくれない。シリウスという名を与えられたその瞬間からあるいは、彼はブラックに捕え続けられていた。明るい星ほど、周囲に投げる光もそれを浮き出させる闇も大きかろう。まさに彼はそうだった。彼自身常にその背中に、無意識にその暗い暗い真空を背負っていた。

 重い足取りで屋敷の門をくぐる。気分すらも、ズンと沈むような気がした。
 ずいぶんと荒れ果てた庭に、かつての面影はあまり見受けられない。かつて花の咲き乱れていた中庭は、草の生い茂る原野のようになっていた。木々は思い思いに生え、絡まり合い、影の化け物のようにも見えた。
 様子のかわった庭をぬけながら、それでも彼は、少女のことを思い出さずにはいられない。
 
 かつてこの庭で、彼女がわらった。シリウスと彼の名を呼んで、その指先を彼に伸ばし、ほほ笑んでいた。かつてここは、美しい花の園。藤色のドレスを着て、彼の、彼だけのが彼のためだけにここにいた。
 やはりこの屋敷が嫌いだと思った。
 思い出がありすぎる。美しいものもおぞましいものも、たぶん同じだけ。アズカバンで失った幸福な記憶が、色をなくした庭のあちこちに、隠されている。それらは宝石のように光を放つから、彼の目はそれを見つけずにはいられない。かつて彼のために存在した少女のこと。その美しかったこと。たいせつだったこと。まだ弟が、無邪気に二人の後をついてまわったこと。閉ざされた庭の中で、それでも少年と少女がこうふくであったこと。
 今の身の上にその思い出は辛すぎると思った。
 苦い記憶も甘い記憶も、どちらも彼を苛んだ。
 。彼女は今、いったいどうしているだろう。
 秘密の番人を引き受けてから、連絡ひとつ、とらなかった。すべて片が付いたら―――今度こそ、そのつま先に跪いて、その手をとって、今までずっと避けて通ってきたあいしているという言葉を言おうと思っていた。けれどもそれより先に、彼は思いもよらない裏切りを受けて―――親友も、自由も、名誉も、なにもかもみな失った。形だけの裁判の席で、彼女の兄が必死に、シリウスは我々の秘密の番人でありポッター夫妻の番人ではなかったと主張したがそれが認められることはなかった。
 それ以来の彼の記憶は、忌まわしい闇に囚われている。

 そこを抜け出してからの1年は、目まぐるしく、とても彼女の安否を確認するどころではなかった。
 何も知らない。知らされていない。
 その事実はこんなにも、彼の胸を苛立たせる。
 知りたいなら訊けばいいのだ。では誰に訊こう。誰が答えを与えてくれるだろう。しかし知ったところで、どうするのだ?過去の幻影のような男がいまさらのこのこ現れて、一体彼女になんと言う?

 未練がましいことだと、彼は口端に自嘲じみた笑みを浮かべる。
 忘れたことなんて一度だってなく、嫌いになったことなんて絶対にない。いつも、いつだって、別れを決めた後も、ずっと彼の中心に居座っていた少女。青白く冷たい燐光を上げて燃える、彼の星に、たった一輪咲いていた花。
 今もずっと、枯れることなく。

 つまりは簡単なことなのだ。
 彼はまだ彼女に愛をしている。
 言葉はどれだけ重ねても白けてしまうばかり。君にあいしてる。思えば幼いころから、彼にはそればかりだった。知っていた。知っていたのに、名前を付けはしなかった。そうすることで、変わらずいられると信じていた。変わりたくなかった。たったひとりの。俺の、俺だけの。
 そう信じていた。
 そうしてしかし不思議なことに、今もそう感じている。
 おまえはわらうかな。
 少し彼は口端を先ほどとは違う感じで持ち上げる。囁きかけるような、かすかな笑み。


 ふいにガサリと、茂みの揺れる音がした。
 風とは違う―――。
 そこまで考えて彼ははっと姿勢を起こす。誰もいないと聞いていた。彼は杖を構えた―――まさか追っ手だろうか。茂みが揺れる。容赦は不要、一瞬の遅れが、命取りになる。

「…――――――、」

「誰?」
 構えてほとんど唱えかけた呪文が、口の中で蒸発してきえるのを彼は他人事のように感じた。
 ホグワーツの制服を着た少女が、彼を見て目を見開いていた。黒い髪。遠い昔の少女に、ひどく、よく、似て。過去の幻が突然現れたのかと思った。

「…………?」

 ハリーより少し、年のころは上だろうか。
 彼がわずか呟いた言葉にかぶさって、懐かしいような響きの音が遠くで聞こえる。 「?どこです?」 やわらかな女の声。どこかで、聞いた。彼の存在を根底から形作る音の要素。天国の音楽。

「それ、私の名よ。」
 なぜ知ってるのと不思議そうに少女がわらった。いまだ動けずにいるままの男の視界の先で、再び茂みが揺れる。
?」
「はあい、ママ。」
 少女が振り返った。彼女そっくりの母親に向かって。
 そうして彼は、たっぷり一拍置いて気がつく。その瞳の銀。
 確かにどこかで、見たことが、ある。




(オン・マイ・カラーレス・ガーデン)