begin of the collapse



 ブラック家の庭はそれは美しいゴシック様式をしている。
 その家をおとなうと、必ずわたくしはその庭の、ばらがアーチと壁を作る小さな一角でシリウスとであった。そこはちょうど渡り廊下からも二階の窓からも死角になっていて、何も気兼ねすることなく寛げる数少ない空間だった。
 わたくしは白い椅子に座り、テーブルの上の紅茶を飲む。シリウスは座らずに、ばらの生け垣に凭れるようにして腕を組んで立ち、そのままとりとめのない話をした。

 幼い頃は、彼はわたくしの向かいに座り、今日初めて覚えた魔法のことや、いかに難しい魔法を彼が行使し大人を驚かせたか、それから今日の朝食にチキンがでたこと(それは彼の大好物だ)、彼の見つけた抜け道、大人たちの参加するパーティーに早く自分も出席したいということ、それから弟のこと、などさまざまなことを話した。
 わたくしはその話に相づちをうち、時折飼っている白猫のことや、家族のこと、それから昨日読んだ本のことを話した。
 内気で家族以外の他人と会話することがわたくしには苦痛だったが、シリウスとはなすことはたのしく、苦にはならなかった。なぜかと言われると、その理由はよくわからないが、"こんやくしゃ"だからだと、当時は思っていた。

 やがて少し年を重ねると、彼は少しばかり憂いを帯び始めた。
 これまで自慢げに語っていた魔法の話や闇の宴の話を、忌々しげに語るようになった。特にあの恐ろしい宴の席に、自らの両親がわたくしを招いたことには憤慨し、さらにわたくしが気分を悪くして気を失いかけたことには、いつまでも腹をたてていた。
 彼は自らの従姉妹たちやマルフォイ家の息子に対して、今まで持っていた自分より劣るという意識のほかに、嫌悪感を持つようになった。そうしてだんだんと、彼はそれを隠しもしないほど次第に強めていった。
 そう言った話をする時、きまって彼の顔は苦々しく歪む。


「そんな顔をしないで、シリウス。」

 こわいお顔、と少しわたくしがわらって眉間にできた皺を人差し指でぐいぐいと押すと、彼はいつも困ったようにわらった。
「そうだな、気分の悪くなる話は止めよう。」
 考えただけで、ムカムカしてきた!そう言って、彼はテーブルの上の茶菓子をぽおんと空に放って口で受け止める。どこでそんな不作法をおぼえてくるのか、しかし幼いころはそれがおもしろく、素敵なことに見え、私もレギュラスも真似をしては失敗した。
「またそんなことを言って。」
「いいんだよ。それよりの話を聞きたいな、」
 もぐもぐと口を動かしながら、幼いころはよく見られた人懐こい笑みでそう言われると、口下手なわたくしはいつも困ってしまって、とっさに話題が見つけられずに口ごもった。けれども彼はほかの誰にも見せないような根気強さでわたくしの口から話が出てくるのを待ってくれたので、やがてわたくしの口からはぽつりぽつりと、とりとめのない言葉が生まれてくるのだった。
「あのね、」


 やがてわたくしたちが学校へあがる頃には、彼はますますブラック家への嫌悪感を強め、自らのなかの正義感を信奉し、その孤独と輝きとを強めていった。
 彼の中で彼の家は、だんだんと軽く、意味のない、忌々しくも彼を縛る鎖でしかなくなった。彼にとって家は、家族は、家庭は、なんの意味も持たないものになった。
 暗く重たく聳え立つ、格式高い彼の家。

 わたくしには、あの恐ろしい宴の印象が強く、おばさまがいくら優しくしてくださっても、なかなかあの身の毛のよだつような感覚を拭い去ることができない。
 そもそもわたくしはおとなしく、社交的な性格ではないから、それを少しばかりよく思われていないのも知っている。しかし同時に、わたくしのその性格が、彼の人たちに都合がいいこともやはり知っていた。
 なによりますます反抗的な嫡男が、家の差し出すものすべて拒否するなかで、拒まないのはわたくしだけだったから、やはりおじさまもおばさまも、わたくしをかわいがった。それがますます、彼には気に食わないようだった。
 お前を、俺を懐柔する手段にしようっていうのが気に食わない。
 彼は難しい単語を操り、もはや両親を他人のように呼んだ。


はなにも思わないのか?」

「なにがです?」
 ばらの庭で彼は問うた。風がゆったりと西から東へ吹いていた。
「なにもかも家に決められて、嫌にならないかってことだ。」
「…なにもかも決めつけられていると思ったことはありません。」
 シリウスがわたくしのことを面白いというのは、大人しいのにこうしてはっきりと思ったところを述べるところであるらしい。その時も彼は、少し眉間の皺を和らげて、少し口の端でわらった。
「本当に?俺なんか窮屈で窮屈で息が詰まりそうだ。」
「…その割に自由にされているように思えるけれど。」
 家庭教師をクビに追い込む、パーティーをさぼる、おじさまおばさまに口答えしてはまるで言うことを聞かない、僕妖精をいじめる、ふらりと屋敷を抜け出す―――。
 どこが不自由なのだろうか?
 彼は言う。不自由だから、反抗し、不自由だから、抜け出すのだと。
 彼は本当の不自由を知らないのだと、わたくしはおぼろげながらに思っていた。
 本当の窮屈というのは、本当の不自由というのは、窮屈を窮屈とも思わず不自由を不自由とも知らず、ただ周囲のしがらみにがんじからめになって、心細くても泣くこともできぬ、彼の弟のような人間のことを言うのだ。
 シリウスの精神こそは、なにものにも縛られず、自由で、わがままだった。
 そうして彼は、そのことを自覚していない。

「…お前まで説教か?」
 ふてくされたように唇を尖らせて、彼が肩をすくめる。
「いいえ、」
 わたくしは少しわらった。彼がかわいらしく思えたから。
「なにもかも決められている。この家に生まれた時から。俺はブラック家の長男として、家の、親の、他人の、望む通りに生きるなんてまっぴらだ。そんなの生きてるって言わないだろう?どうして俺が俺であってはいけないんだ?誰に俺が俺でいることを阻む権利がある?親に?親戚に?家に?闇の帝王に?そんなことあるはずがない。あるはずがない、だろう?」
 その目が少しわたくしを困ったようにみていた。わたくしもまた、彼にとって決められた要素であるには違いなかった。
 少し胸が痛んだような気がしたのは、思い違いだろうか?

「…お前は嫌だと思うことはないか?後悔することはないか?」

 銀の目。不思議とそれだけ、色がわかる。
 彼は自分では気づいていないのだろう、その問いを発するとき、いつも心細げな表情をしている。だからいつも、その問いをわたくしはわらった。
「いいえ、」
 それに彼が、少しほっと息を吐くのを知っていた。

「いいえ。」

 わたくしはあなたとこうしてともにある約束を、後悔などしていないのだと。それがたとえ、自らが生まれる前、勝手にきめられたものだとしても。
 言葉にせずとも、伝わると信じていた。
 だからわたくしは微笑し続けた。
 それは愛だろうか?


 しかし、そうして深まり続ける彼とブラック家の亀裂は、ついにわたくしたちのホグワーツ入学によって決定的となった。
 わたくしはショパン家の例にならってレイブンクローに収まった。
 シリウスは、ブラック家始まって以来の、グリフィンドールだった。

 組み分けの儀式のとき、シリウスは壇上で、レイブンクローの席についたわたくしをちらりと一度だけ見た。あれがブラックの嫡男だという好奇と羨望と冷たいものの混じった視線を一身に集め、しかしそんなことなど関係ないと言うように。
 一瞬だけ合わされた銀の目は、すぐに長いまつげに隠れた。
 彼が戴いた帽子が、震えながら「グリフィンド―――――――――――ル!!!」と叫び、広間はそれこそ水を打ったように静まり返っていた。
 校長と、それから電車の中で会った眼鏡の少年だけが、おもしろそうに手を叩いていた。わたくしはゆっくりとまぶたを閉じながら、噫ついにこの日が来たのだと思った。
 どこかで、こんな今日が来るのを知っていたのだ。
 当たり前のことが当たり前に起きた。悲しみも怒りも喜びも、なにも浮かんではこなかった。生来感情に、乏しいことは自覚していた。
 シリウス。
 共に歩んできた、短くはない時間を、閉じた瞼の裏で考えた。
 色のない庭の中、その目の銀だけが、わたくしに色を教えた。わたくしの世界にたったひとつの色と輝きを齎す人。
 生まれる前から決められた約束のとおり、ここまできたのに。
 けれどもこの日のこともまた、まるで生まれる前からの約束のように、やはりきまりきっていたことのように思えた。






(ほうかいのはじまり)