リーマス。
最期に私は、君に身勝手な贈り物をしようと思う。
はるかな空の彼方に、君が棲むための星を買った。
月によく似て、しかし月ではない。
そんな大きな衛星の傍らに浮かぶ、君の星。
紫水晶の峰々、柔らかな丘、果てに立つ灯台、淡い光の花畑、
優しく囁く緑の梢、滑らかに澄んだ水。
すべて、すべてが君のものだ。
ともだちも乗れるだけの、銀のロケットも用意した。
そうして私は、遥か遠い地球の土の下から、
おたんじょうびおめでとうを、
幾千、幾万、幾億の夜も君に繰り返して。





 きみのことをひどく好いていた。
 きみの秘密を知ったとき、私は誰にも言わないでいようと思った。
 きみの孤独を知ったとき、私は君にも知られないでいようと思った。
 知っているよと囁きかけるには我々は遠く、共に担おうと言うほどには我々は親しくはなかった。君の孤独と秘密とを、知っているよ、と囁きかけるのは、私たちの距離感を考えると、とても卑怯なことに思えた。
 いつも遠くから見ていた。
 そう言うと、美しい、淡い思い出のように聞こえるかもしれないが、私はただ、彼が涙を呑む夜も、傷を掻き毟る朝も、うすっぺらく笑う昼も、すべて、すべてを克明に記録する無慈悲な機械のように、ただ、見ていただけなのだ。
 まばたきすらもしなかった。
 きみを見ている。
 ただそれだけのことで、それだけのことだからこそ、それは随分と、気持ちの悪いことだったと思う。
 どうしてきみを好きになったかなどという、些細な話はよそうと思う。
 それは物事が始まり、賽が坂を転がり落ちるに至る、ほんの切欠にしか過ぎないのだった。今となっては坂を転がりきって、さらにその先の深い穴の底へ落ちきった。もはや物事の始まりなど、あってもなくても違いのない、瑣末なことに違いない。
 きみに恋をして、いつかきみに愛をするようになった。
 けれどもそれは、臆病な私の、粘着質な眼差しと、心の奥底からの醜い執着とを、ただ、一方的にきみに注ぐ、それだけの行為だった。
 知られようとも思わなかった。
 知られまいとは思っていた。
 それがひどく、身勝手な、押し付けがましいことであると、始めの初めから知っていた。
 きみが悲しみと、苦しみと、痛みと、嘘とに苛まれて苦しんでいるのを知っても、指先ひとつ、差し出さなかった。きみが友情と、信頼と、愛情と、その喜びに包まれて、けれどもどこかでその終わりを恐れていたときも、その喜びをことほぐことも、その恐れをなぐさめるわけでもなく、ただ私は、それを見ていた。
 こんなにも一途に、浅ましいほどに、きみだけを見ているのに、私はきみに、一度だって、触ってみようとはしなかった。
 むかし、本当に昔のことだ。
 懐かしい学び舎の談話室で、きみが眠っているのを見たことがあった。
 忘れ物をして、授業も始まったばかりだと言うのに、私は部屋へ戻る最中だった。きみはソファの上に顔を預けて、ひざまづくように眠っていた。張り出し窓から明るい昼の光が落ちて、きみの髪の輪郭が金色にひかっていた。健やかな寝息と、伏せられた目蓋のまるい形を見た。
 ソファはちょうど、女子寮へ続く階段と、寮への入り口を遮るように在って、私はひどく困ってしまって、途方に暮れていた。
 そこは完全に、きみだけの空間だった。
 足を踏み入れる前に、私は気がつくべきだった。
 きみのために世界がこんなに静かに、明るく、光をかがって、子守唄をうたう真昼の午後だ。どうしてそんなところに、出くわしてしまったろう。なるべくソファを避けるように、大きく迂回して、階段へ至る道を選んだ。息を殺して階段を登り、また下った。きみはその間も、ずっと穏やかに眠っていた。
 そんな格好で寝ては首を痛めるか風邪をひくだろうと思った。
 魔が差して少し近づいた。
 眠るきみの前髪に、指先が触れそうな距離だった。
 ふいに日が翳って、私ははっとして、そうしてまた静かに、息を殺して、談話室を出た。
 後にも先にも、きみに触れそうになったのはそれだけだ。
 むしろそれ以来、私はことさらにきみを避けた。きみは避けられていることすら知らずにいた。
 私の名すら、おそらく知るまい。
 それこそが本望で、それ以上なにを望むだろう。
 きみがともだちと笑いあうとき、きみの孤独にともだちが触れるとき、きみの孤独をともだちが忘れさせるとき。私は声には出さず口のなかで「ともだち」と何度も囁いた。それは異国の言葉のようで、まだ習っていない難解な呪文のような響きをしていた。
 けっきょく今の今になっても私の口からは、その言葉は正しい発音で出てくることはなかった。
 きみのことをずっと見ていた。
 私は目だった。
 きみをただ見ている。
 ともだちに囲まれているきみ。ともだちに困らされるきみ。ともだちに救われるきみ。ともだちに信頼されて、信頼して、そうしてたくさんの人に触れて、触れられるきみ。ともだちを止められずに、ともだちを傷つけるきみ。あちらのともだちと、こちらのともだちを、秤にかけるきみ。そのことを恥じているきみ。そのことをうとまれているきみ。監督生のきみ。チョコレートが好き。満月の夜、おぞましく恐ろしい、恐怖そのもののきみ。ともだちに囲まれて、闇の森をそぞろ歩くけだもののきみ。きみ。きみだ。
 どのきみも酷く好ましかった。
 それこそ気持ち悪がられるだろうが、卒業してからも、ずっと、ずっと、ずっと、きみを見ていた。
 きみだけを見ていた。
 飽きることはなかった。
 きみを見ているうちに、いつの間にか私は、薬草と、満月と、変身学と、呪われた血がもたらすおそろしい症状に、どうやら随分と詳しくなった。日々くすり草の匂いと、イモリの燻製やら、水竜の浮き袋なんかに囲まれながら、それでも私はともすれば、四六時中きみだけを見ていた。
 何千、何百と、微量に調合を変えて薬を作った。なかなかうまくはいかなかった。むしろ失敗の連続であったといっても良かった。トリカブトを加えたのは、研究に倦みきった頭が無責任にたたき出した、いっそ楽になるというのも手だよ、という、酷く残忍な気分からだった。それが効くとは思わなかったなど、後にも先にも誰にも話したことはない。
 例のあの人の影が一度消えて、きみのまわりにはともだちがいなくなった。
 それでもやはり、私はなにもしなかった。
 きみの寂しさにつけこむような、器用な真似ができなかった。
 だからやはり、ただただきみを見ていたのだ。いつも見ていた。ずっと見ていた。一度も声はかけなかった。姿すらも見せなかった。
 けれどもきみは、ある日、突然に、自らの足で、歩いて私の前に現れたのだった。
 最初私は、それがきみだとわからなかった。
 あまりにこうふくそうで、わからなかった。
 きみは薬を求めた。
「処方はいつもここから聞くのだときいたから。」
 とそうきみは言った。
 そのときの声の響きの深さを、わだつみの底から響いてくるような空恐ろしい懐かしさを、初めて私に向かってきみの声が発せられたその事実を、私はなんと受け止めればいいのかわからなかった。
「ここでは他にもいろいろな薬の研究がされているのですか。」
 きみはそう訊ねた。まるで私が、同級生だなどとは思いもよらないようだった。
「ええ、」
 と私は、ごく静かに、抑揚を抑えた声で答えた。
「看板を見たでしょう。」
「魔法省支援機関難病魔法薬学研究所。」
「そう、呪文みたいな名前のところです。」
 そうですね、ときみは低い声で笑い、しずかな声で「この病は遺伝するのでしょうか。」と訊ねた。
 私はやはり、決まりきった呪文を唱えるように「私は医者ではありませんからお答えしかねます。」と答えるだけだった。そうですか、とほっとするように、絶望するように、そのどちらともいえない息を吐いて、薬を受け取って出て行くきみの背中を見送ってたっぷり10分もの間を置いて初めて、私は椅子に座ったままひっくり返って、随分と長いこと天井を見ていたものだった。
 まとめていた髪を解いて、眼鏡を外すと、随分と眉間と肩とが凝っていることに気がついた。時計の秒針の音が、随分大きく聞こえていて、心臓が表へ飛び出したのではないかとぼんやり思った。
 それから3時間ほどして私はゆっくりと立ち上がり、髪を結いなおして眼鏡をかけると、交代のために研究室の奥へ引っ込んでいった。
 きみがどんなに変わっても、つまるところ、私はこれっぽっちも変化しなかった。
 もはや数億年前から土砂に押し固められた化石のように、私は自分が不動のものに思えた。好いている、というその感情さえも、押し固められ、石化して、無味乾燥と化している。
 それに気付いたのも、今となっては遠い話なのだった。
 私は最期の時を目の前にして、人生に大きく横たわるきみという存在が、いつの間にか、後悔に似た、やるせない自らへの失望に変わっていることに、死の床について初めて気がついたのだった。
 きみをとむらって、もう何十年も経つ。
 それでもきみが好きだったから、私はじっと、きみだけを見つめて生きていた。
 けれどもこうして振り返ると、私とはなんと、臆病で、浅はかな、生き物だったろう。
 きみに触れたかった、と今になってそう思った。
 それからきみに、こんなにも触れたくなかったとも思った。
 今となっては、魔法も、科学も、ずいぶんと妙に進歩した。
 時間も、宇宙も、我々の手の中にあった。
 それなのに、死んだものは帰らず、失ったものは再び見つかることはない。それだけが普遍の原理であるかのように、私たちのまえに立ちふさがっている。
 私にはずいぶんと金があった。
 それこそ一生遊んで暮らしても、使い切れないような額の金が。人生で私が偶然見つけた“特効薬”は、随分と大勢の生命や暮らしを改善したらしかったが、きみの人生に間に合わなかったので大した意味はもはやなかった。特許料というやつが、なにもしなくても毎月莫大な額支払われた。グリンゴッツの講座は金貨が堆く積まれて、ドラゴンを雇わなければならない始末だった。
 滑稽なほど一途にきみだけを見ていた私には家族もない。その大金は、死ねば小人たちが喜ぶだろうか、それとも研究所へ流れるのだろうか。誰かに勝手に使われるならと言って、私にはそれを慈善事業に使うような優しさもなく、かといって捨ててしまうにも面倒くさい。
「なにか遣り残したことをパアッとやってしまったらどうです。」
 そう勧めたのはグリンゴッツ銀行の赤毛の頭取さんで、「そうね、」と私は曖昧に答えた。
 遣り残したこと。
 一晩悩んで、それから私は、すぐに弁護士を呼んで、手紙を書き、小切手を書いて、それから魔法省にコネをつかって複雑な要請をし、ついに、一度しか使えないが物質に作用する特殊なタイムターナーと、一艘の銀色のロケットと、それから宇宙の彼方にある小さな星の所有権を、過去・現在・未来に渡って恒久的に保持する契約書とを手に入れたのだった。
「これをどうするのです。」
 と困ったように赤毛の頭取が訊ねる。
 タイムターナーはまだ試作段階の駄作と言っていいものだったし、ロケットも、恒久的な星の所有権も、死ぬ前に買うには馬鹿げて見えるのも仕方の無いことだった。
 ほとんどの金を使い切って、それを手に入れた私に、パアッと使い切っては、と提案した張本人でありながら、彼はいつも、困ったようにする。
 しかしながら私は、そんなことにはとんちゃくもしなかった。彼は私よりも随分と若かったし、私は彼にも、少なからぬ貸しがあった。随分昔のことだが、まだこの初老の男性が若い頃、きみと同じ病に汚染された爪と牙で怪我を負った。それ以来彼は、ステーキを好んでレアで食べるようになったが、もちろん弊害はそれだけではなかったことが、後々になってわかった。しかしそれも過去の話で、今では彼に残っているのは顔面の傷だけだった。

「送るのよ。」
「……どこへ?」
 優秀な頭脳の持ち主だろうに、彼は時折、こうやってわざわざ物を訊ねては私の口から言わせたがった。言葉にまで担保をとろうとするのは悪い癖ですよと、言ってやろうかと何度も思い、けれども私は、結局ただその答えを口にする。
「過去へよ。」
 自分の口調が、変に、若い頃のように響くのを聞いた。
 奇妙な心地がしている。体の内側がカッカと燃えて熱く、なんだか目はらんらんと輝いているような、そんな気がするのだ。一瞬蛇のように熱い息を吐き出し体を膨らませる自分を想像して、それからきみのことを思い出し、私はぺたんと、元のように、ちっぽけな存在に小さく縮こまっていく。
 黙った私を哀れむように、彼はまなざしを向けている。
 ほとんど使い切ったとはいえ、まだ残っているたいそうな額は、すべて銀行にお任せすることになっていた。
「……届くか届かないかは、重要ではないの。」
「……とても大事なものではないのですか。」
 しばらく黙って、それから私はしずかに、いいえ、と答えた。
 いいえ。
 ただいつもきみを見ていた。きみを見ている。
 いつかの朝を夢想する。
 小さな銀のロケットと、意味不明の手紙と、小さな宇宙の彼方の星を、君が受け取った昔々の朝が来るのを、死の内に夢む。













「ずいぶん昔に出しそびれたラヴレターを、最期に出しておきたいと思ったのよ。」