「きれーな花だ」 そう言葉を落としたのはまだ幼い少年だ。ふと見上げた先にあったその花は少年の目を奪うにふさわしいほどの美しさを持っていたのだ。 「あら、あなたにも情緒があったのね」 くすくすと幼さの残る声がぽかんと見惚れる少年を笑う。そして少女もまた少年からそちらへと視線を移す。 彼はそっと少年と少女が見つめている先を見る。 「(さくら)」 「桜ね。校内だとここにしかないんじゃないかしら」 彼は少女よりも先にその名を心の中で口にした。少年と同じく情緒など感じるタイプではない彼は珍しくも感慨にふけっていた。ひらひらと降るその花びらは随分昔に見た頃と変わらず美しかった。 「さくらんぼが成るのか」 「……花より団子ね。あなたのスキャバーズでも見惚れてるのに」 呆れたと言わんばかりの声に少年が言い返そうとしたが誰かが二人を呼んだためそれは叶わない。 ひらり。舞い落ちる花びらは彼の心に強く残った。 「っく……ひっ……」 彼は幼い頃からいじめられっこだった。念願の魔法学校に入ってからも何かとからかわれた。反論すれば良いのにそれをせず女々しく泣くからからかいは止まらない。 その日もスリザリンの奴等にからかわれた彼はふらふらと逃げてきていた。 「泣き虫くんがいる」 逃げて来たのは校舎の端だ。人はあまり来ない場所で彼はよくこの場所に来ては大きな木の根元にうずくまって泣いていた。 「だ、だれ……?」 笑い声を含ませていたのは確かに彼に向けられたものだ。それは上から降って来た。まるで花びらがひらひらと舞い落ちるように自然なものだった。 彼がお世辞にもきれいとは言い難い顔で木を見上げれば枝に人が座っていた。 「最近よく来るね。新入生でしょう?」 「……そう、だけど」 声の主は彼よりも年上の少女だった。スカートだというのに気にもせずに木登りをしている。顔は陰に隠れてよく見えないけれどきれいな凛とした声だった。 「ここは泣くにはうってつけかもね。滅多に人も来ないし」 「……ずっと、僕のこと知ってたの……?」 私の特等席だからと彼女はくすくす笑った。つまり最初から彼が泣いていたとを知っているのだ。 彼が恥ずかしさで顔を真っ赤にさせていると彼女はゴメンと上から言葉を投げた。悪いと思っているようにはとうてい感じられない言葉。 「きみの名前は? 泣き虫くん」 「ぴ、ピーター・ペティグリュー」 「ああ。うちの新入生か」 彼のことを知っていた彼女は、グリフィンドールの首席だった。 「ピーター、また来たの」 「っく。だって……」 毎日とは言わないけれど頻繁にあの木へピーターが向かえば彼女は必ずいた。必ずいる時間にピーターが駆け込んでいたのかもしれない。無意識だったのか意識的だったのか。それはピーターしか知らない。それでも確かに彼が女々しく泣けば木の上から彼女が呆れたように笑っていた。 七年生である彼女は進路を決めるのに忙しいかと思えばやりたいことはずっと前から決まっているのだと、魔法省への就職をきめていた。 「泣き虫くんに今日もひとつ、面白い話をしよう」 ピーターがここに通い始めてもうずいぶんと経つ。年を越し、心底冷える季節になった。地面は白粉の化粧を施し木々は静かに眠っていた。出会ったころと違ってピーターには一緒に時間を過ごす友人がいた。女々しく泣くことも随分と減った。 泣く日も泣かない日もピーターはこの木の根元に足を運んだ。ローブを羽織り冷え込めばマフラーを巻いた。手袋をしてコートを着た。いくら体が冷えてもここに向ける足は鈍らなかった。行けば大抵木の上からくすくす笑い声が聞こえたから。 彼女はピーターの知らないことをたくさん知っていた。一日を楽しく過ごせるコツ、季節の変わり目を見抜くコツ、先生のちょっとした癖、校舎の秘密の通路の話。彼女は勤勉であり面白いことが好きな人間で、そこはピーターが仲良くし始めた友人たちと少し似ていた。勤勉であるところはベクトルの向きが違ったが。 「面白い、というよりは美しい話かな。この木の話」 「この木? そういえば何の木?」 ピーターは情緒というものが欠けている典型的な人間だった。きみはもう少し繊細な心を持つべきだと熱っぽく語ったのは陽気な眼鏡だった。 彼女はピーターの頭上で幹を愛しげに撫でていた。 「桜の木だよ」 「……さくらんぼ?」 桜と聞いてもピーターにはそれしか出てこなかったらしい。彼女は花より団子、とくすくすと笑った。 「私のおばあちゃんの国でとても愛されてるんだよ。この花が咲くとすごく綺麗でね、ひらひらと花弁が散る景色は心動かされるよ」 「散っちゃうところが?」 「散るからこそ、ってやつだよ。おばあちゃんの国ではこの桜のように潔く散ることが美徳だと言われた時もあるらしいから」 ピーターにはさっぱりだったが彼女はそれを誇らしげに言うのでただ頷くしかなかった。否定などしたくはなかったのだ。 「おや、先客とは珍しいね」 「ルーピン先生」 あれから、幾年月が経っただろう。ピーターはこの学校に戻ってきたときからときどきこの桜の木の元に訪れていた。もうあのころとは違って彼女が樹上から声をかけてくれることはないけれどそれでも良かった。この学校はピーターにとって痛いほど眩しい世界だ。彼女はあの頃からずっと永遠の憧れだった。 少年と少女が桜の木を見上げているとやってきたのはピーターの友人だった。かつての、と入れた方が良いのかもしれない。 「こんな外れに、どうなさったんですか」 「思い出の場所なんだよ」 やわらかくほほ笑むルーピンはくたびれている。年を取り苦労を重ねた姿はピーターの知る頃の彼とはずいぶん違う。あの頃だってルーピンは疲れ果てていたけれど活気に満ちていた。幸せだったはずだ。 「思い出?」 「そうだよ、ロン。といってもわたしの、というよりはわたしの友人の思い出の場所なんだけどね」 ルーピンは知らない。死んだはずの友が目の前にいることも、その友がすべてを裏切っていたことも、彼は何も知らない。 ピーターを思い出しているだろう笑顔がピーターの知るあの頃のルーピンの笑顔と重なった。やわらかく笑う落ち着いた少年。 「どういった場所か聞いても構いませんか?」 「友人が初恋をした場所らしい」 「らしい? 先生知らないの?」 「気弱な奴だったけれどそのときばかりは教えてくれなかったよ。……よっぽど、大事な思い出だったみたいだ」 こそこそときどき姿を眩ませるピーターのことに気付かない友人たちではなかった。いくら聞いても話してくれなかったし。試しに尾行しても彼はあの木の根元で樹上の誰かと話していたのだが樹上の相手は綺麗にルーピンたちの捜索から逃げ切った。 ピーターのお相手は彼らの間では桜の君としてあだ名がつき、その正体が知れたのは彼女が卒業してしまった後からだった。それでもときどき桜の木の元を訪れていたピーターを、彼らはときどきからかっていたのだがそれもいつしかなくなった。 「二人とも、ずいぶんと前に亡くなったけどね」 魔法省に入った彼女は闇祓いとして働き出した。優秀な魔女でありグリフィンドール出身ということがすぐに分かるような勇気のある彼女は果敢に敵に向かっていった。 そしてピーターが卒業する前にあっけなく死んでしまった。桜のように潔く、散ってしまった。 「おっと。二人ともそろそろ戻らないと」 「ほんとだ! 行くぞ!」 「分かってるわ。先生、失礼します」 慌ただしく走っていくその場を立ち去る少年のポケットから鳴き声が聞こえた。泣いているようにも、悲鳴を上げているようにも聞こえたその声は二人を見送ったルーピンの耳にひどく印象的に残った。 ひらり。薄桃色の花びらが落ちる。 揺れるポケットの中で彼は遠目に映る花びらを見つめる。樹上から、声が聞こえないかと期待して。 |