うららかな光が流れていく。柔らかい風は丘の向こうへ。透明な空に雲はきらきらきらと瞬いて、小鳥が軽やかに羽ばたいていく。今ならどこまでも行けそうな気がする。果てしなく、どこまでも。そんなとき私は歌を歌うのだ。歌声は遠く遠くまで響きわたって、知らない町の知らない誰かにきっと届くのだろうと、なんとなく、そう思う。






「あれ、また歌ってるの?」

その声に、そして姿に、思わずあからさまに顔をしかめてしまった。これは相手に対して失礼な行為にあたるのだろう、けれど向こうだって無遠慮じゃないか、人がせっかく一人で人目も気にせず気持ちよく歌っている時に、いきなりやって来て「また歌ってるの?」なんてどうして訊けるのだろう。まったくもって心外だ。また歌ってて何かいけないことでもあるのだろうか。私の歌がそんなに不快なのか。でもここは一日中誰も近づくことのないような中庭の隅であって、そっちが自分から出向きでもしない限り私の歌を人に聞かれることはないし、私だって他人に聞かせるつもりで歌っているんじゃない。それなのにあの少年ときたら一体何 「おーい、さん?」

思考はさえぎられた。

「…なんですか」
「話しかけたのに、君難しい顔して考え込んでるから」
「いえ、シカトしてたんです」
「ひどいなあ、」

と言いつつも、少年は言葉に反してにっこり微笑んだ。さらりと揺れた鳶色の髪が、日に透けて淡く金色を帯びる。(女の子たちはみんなこの優しそうな笑顔が堪らないらしいけど。私にはどうにも胡散臭く見えてしまう。やっぱり第一印象って重要なんだなぁ) 彼の名前なんて知らない。と言ってやりたいところだけど、生憎ばっちり知ってしまっているのだった。この間ここで初めて彼と会った、その前からも知っていた。リーマス・ルーピンという。有名集団の一人。そんな人がなぜ私に構ってくるのか、それが全く分からない。

「この前、」

我ながら愛想の欠片もない声だった。彼をにらみ付ける。

「言ったじゃないですか。私のこと、変な子だって」
「そんなこと言ったっけ?」
「はっきりと」
「あはは、覚えてないや」
「(…)…もうあっち行ってくれませんか」
「えー」
「えー、じゃなくて」
「どうして?」
「ここで歌いたいから」
「歌えばいいさ。僕のことは気にしないで」
「一人でいたいんです」

「さびしくないの?」

にこにこ、という効果音が聞こえてきそうなくらいの眩しい笑顔が目の前にあるというのに、私の心には一向に暗雲が立ち込めるばかりだった。さびしくないのかって?この人は、私のことを『さびしい子だ』と、そう思っているということか。(そんなのって、失礼だ!)いつも何事にものらりくらりと対応している私には珍しいことに、なんだか無性に腹が立って、これ以上彼の顔を見ていたくなかった。踵を返した。

「もう、帰ります」

早足で彼の横をするりと通り過ぎる。引きとめようとしたのだろうか、彼の唇が微かに動いて何か言葉を紡ぎだそうとする前に、私はその場を走り去った。自分でもよく分からない、惨めで屈辱的な気持ちがしていた。(私のこと、なんにも知らないくせに、)唇をぎゅっと噛み締める。どうせ変な女だと思って興味本位で近づいてきたのだろう。やな人。もう会いたくない、と考えながら、でも後からこんなことを思うことの不毛さに気づいて、馬鹿らしくなってしまって、だんだんと走りを止めた。
息を切らして見上げた空は、嫌味なほど薄く青色に澄んでいた。淡い春の色だった。






次の日も、(昨日あんなことがあったというのに、)彼は来た。私みたいな女に構ってくるなんて、よっぽど暇人だとしか思えない。そんなはずないのに。

「やあこんにちは、さん」
「……」
「挨拶されたら挨拶を返そうね。それが人間関係を円滑にする一つのマナーだよ?」
「いいいいひゃい!ほ、ほっぺはつえんにゃいでふがひゃい!」(『ほっぺたつねんないでください!』)

ひりひりとした痛みと共に赤くなる頬を両手で押さえて、涙目になりながら私は叫んだ。「ル、ルーピン君てそんな人だと思わなかった!」
ルーピン君は私の剣幕もどこ吹く風で、嬉しそうに微笑んだ。「わあ、僕の名前知ってくれてたんだね」

…もう睨むしかない。それしかない。私はあらん限りの力を瞳に込めて、射殺さんとでもいうくらいに彼を見据えた。一体何を考えてるんだ何がしたいんだこの人は。わからない。わからない。わかりたくもない。私のことなんて放っといて欲しいのに。なんであなたってそうなの、ここに来ないでよ、へらへら笑って私の場所に勝手に入ってこないで、嫌なんです嫌なんです、いやなの、

「なにを怖がってるんだい?」

耳を打つ声音に、はっとした。ルーピン君の細められた目が、まるで私の心を見透かそうとするようにじっとこちらを見つめていた。なぜか思わず下を向いてしまう。(なぜ?)汗ばむ手をぎゅっと握り締めた。「別になにも、怖がってなんか、」 声が震えるのを抑えるのに必死な私を、彼はせせら笑うかのように言った。

「君は、“知らないもの”に怯えて動けないでいる子供みたいだよ」


途端、わたしの中で張り詰めていた何かが途切れた。


「――知った風に言わないで」


自分でも吃驚するほど硬く鋭い声が出た。見上げた視線の先、ルーピン君の顔に表情はない。おちつけ、と繰り返す本能とは裏腹に、感情が昂ぶってうまくコントロールできなかった。ともすれば大声で喚き散らしたいくらいだ。

「私のこと、からかってるんですか?」

さっきのものとは別の種類の震えが、声に混じるのがわかった。そしてそれを感じた瞬間、胸の奥が途端にひゅっと冷えた。ぴたりと震えが止まる。頭が冷静になればなるほど、私のこころは暗い闇に落ちていった。濃く、深く、冷たく。



「私の気持ちを、あなたに理解されたくなんてない」



――それから後のことは、何も覚えていない。
気づいたら寮の自室にいて、気づいたらベッドの横に座り込んでいた。しばらくそのままぼんやりと視線を床に落として、じっとしていた。瞬きすら億劫だった。もうなんにも考えたくない。できるなら目を閉じて眠ってしまいたい……。
それなのに、喉元がひくりとわななくのを私は感じた。ぱたり、ぱたり。古びた木の床に、雫が落ちて染みをつくる。ぱたり。(あんなにも頑なだった私の涙腺が、みるみるうちに崩壊していく。)
そうしてやっと、自分が彼の言葉に傷ついているということに、漠然と気がついたのだった。どっと悔しさが込み上げた。溢れ出す苦しい感情を止められなかった。
それから少しの間、薄暗い部屋の中で、私は静かに泣き続けた。





次の日から、中庭に行くのをやめた。ついでに、グリフィンドールの彼らと遭遇しそうな場面をことごとく避けるようになった。でもそれは彼に対する怒りからじゃない。これ以上、弱い自分を暴かれるのがこわかった。これまで自分を支えてきたささやかな矜持を、すべて失ってしまうのがこわかったのだ。

確かお昼休みのことだったと思う。廊下の向こうから歩いてくる人々の声の中に、“彼”のものが混ざっていることに気づいたとき、私はさっと青ざめた。会いたくない、という気持ちはほどんど焦燥に近かった。考えるまでもなく身を翻す。彼に気づかれる前に逃げ出すつもりだった。のに、ほんの一瞬遅かった。彼の目が私を捉えてしまった。(その目が驚くように見開かれて、唇が動いて、彼の、声が、)


「…さん!」


振り切るように走って、走って、走って。そのうち一体何から逃げているのかすら、分からなくなってしまうくらい。
『――なにを怖がってるんだい?』
なにも、なにも。私は平気、だいじょうぶ、だから構わないで放っておいて。(これ以上踏み込んでこないで、)



思えば、昔から人付き合いというのが苦手だった。私にとっては一人でいることのほうがよっぽど自然で、それを悲しいとか辛いとか考えたことはなかった。そのほうがうまく呼吸できるから、そうしていただけ。私の世界には私しかいなかった。はじまりも終わりも、夢も現実も。いつも一人。



「…あの時は、ごめん。 不躾だって、わかってた」

お互い苦しそうに息を切らして、それでも彼は小さく言葉を吐き出した。彼の右手は私の左腕をしっかりと掴んでいた。触れた部分から熱が伝わる。熱い。あつい。それはなんだか彼のイメージにはそぐわないような激しさを秘めていて、どうしても狼狽してしまう。

「嫌われてしまったよね、」

後ろで自嘲気味に笑う気配がした。空気がざわめく。

「…本当は、ずっと前から君のことを知ってたんだ」
「え?」

意外な告白を聞いて、思わず振り向いてしまった。(かち合った瞳のきれいさに、息を呑む。)

「横顔が、」ルーピン君はそっと続けた。「一人のときの僕に似ている気がして」

それからずっと、気になってた。

静かに告げた声はひどく優しげで、せつない。どうしてそんな目で私を見るのだろう。彼はなにを思っているんだろう。(ああそうだ、私だって、) そのとき私は初めて、自分がルーピン君のことを何一つ知ってなんかいないということに気がついた。

「あんな風に、君を傷つけるつもりじゃなかった」

ごめん。もう一度、かすかに呟かれた言葉。
あの日私に、さびしくないの、と問うたルーピン君を思い出す。

――さびしい、とはちょっと違う。これはもっと穏やかで、拙くて、不安定な感情だ。強くもなく賢明でもない私の、子供じみたささやかな空想だ。

(吹き抜ける風の向こう側。遠くの見知らぬ誰かへと送る合図。届いてほしかった。私がここにいること、知ってほしいと思ったんだ。いつも、この声の繋がる先を求めながら、一人歌っていた。ただそれだけだった。それだけで、よかった。)

ルーピン君は俯く私に困ったように微笑んで、「…泣かないでよ、。」 私の頭をひとつだけ撫でた。この人はずるい。とてもずるい。そうやって少しずつ、私の世界を緩やかに侵していく。(それが心地いいと思ってしまうのさえもまた、彼の思惑通りなのでしょうか。)







翌日、久しぶりに中庭の隅へ足を運んだ。変わらない空気、変わらない匂い。そして彼もまた、何事もなかったかのような顔をして私の前に現れたのだった。
しかもそこにいるのが当然と言わんばかりに、すぐ傍の木の下へ腰を下ろして本を開き始めるので、私は相変わらずつい唇を尖らせてしまう。(たぶん、条件反射、というやつ)

「…どうしてそこに座るんですか」
「いいからいいから。さ、は好きに歌ってよ」
「好きに歌ってよ、って、別にあなたに許可をもらう必要はありません」
「うん、そうだね。ほら早く、時間がなくなるよ」
「別にあなたのために歌うわけでもありません」
「知ってるよ。僕だって別に君のために聴くわけじゃないさ」

淡々と言う彼は、まるで昨日とは別人みたいだ。いぶかしむ私に向かってルーピン君はいつものように微笑んだ。

「僕が聴きたいから、僕は自分のために聴くんだ」

君の歌は好きだよ。そう言うだけ言うと、また本に視線を戻してしまう。なんて勝手な人だ。内心で呟いて、呆れ交じりの苦笑を浮かべれば、ふわり。踊る春風がひとつ。
(私がもう拒むことも逃げ出すこともしないと、彼はとっくにわかっている。)
遥か遠く、空を見上げた。そっと目を瞑る。
薄桃色の優しい風を吸い込んで。



生まれたての春に。












春企画・花のワルツ様へ!〆切ぎりぎりでごめんなさい。お粗末様でした!(2008.5.31. あさぎ)