もちろん、春夏秋冬どの季節だってそうだけれど、特に春のハニーデュークスには、呆れるぐらいの魅力が詰まっている。数ある春季限定商品の中でも、私は特にイチゴミルクチョコレートでコーティングされたビスケットが大好きで、いつもそればかり大量に購入してはリリーにため息をつかれている。女の子のくせに、寮の二人部屋がイチゴとチョコレートの匂いで充満するのが煙たいみたいだ。いや、女の子のくせに、なんて言ってはいけない。だって、男の子のくせにチョコレートが何よりも好きな人だっているのだから。 「呼んだ?」 「うわっ、リーマス。どうしてここに」 「どうして、って。決まってるよ」彼は、少し膨らんだ巾着袋を顔の横で揺らしながら、悪戯っぽく笑った。 「今日使わないなら、一体いつのためにお金を貯めてきたんだ」 「私だって、痛んだ羽根ペンを今日まで我慢して使ってきたんだから」 ちらっと横目で見ながら言うと、どうやらそれは彼も同じ気持ちだったようで、何も反応が返って来なかった。きっと、辛い生活のことを思い出しているのだろう。まず日刊預言者新聞から始まった「チョコレートのための、余分なもの切り捨て政策」は、最終的には必需品にまで及んだ。それが羽根ペンやインクなど、勉強道具である。ジェームズやシリウスに散々からかわれながらも、私とリーマスは励まし合って困難を乗り越えた。二人の間には、がっちりとした絆が結ばれようとしていた。 全ては今目の前にある、このビスケットのため。感慨深すぎてなかなか手に取るタイミングが掴めず、私が棚の前でソワソワしていると、彼が長かった回想から我に返って、徐にビスケットの箱を手に取った。私の心臓は、その瞬間思い切りジャンプした。 「リ、リーマス、そんな!」 「何が?これが欲しかったんでしょう?」 「…そうだけど、あの」 「どうして知ってるかなんて、野暮なこと聞かないでよ」 リーマスはそれだけ言うと、ぷいと回れ右をしてどこかへ行ってしまった。リーマス、と名前を呼んでも振り返らない。店内にはホグワーツの生徒が溢れていてほとんど満員電車みたいだから、振り返る余裕がなくたって仕方がないし、声だってちゃんと届いたかどうかも分からないのに、私は見捨てられたような気持ちになって、箱を持った手を力なく下ろした。そんなに目立って身長が高い方でもない彼は、人波ですぐに見えなくなる。 彼を、怒らせてしまった。あんなに親切にしてくれたのに、私が優柔不断なばっかりに、とうとう愛想を尽かされてしまった。そのことは自分で思っているよりも大ダメージだったようで、店内の賑わいと自分がぐんぐん引き離されていくのを感じていた。今日は、今日だけは誰よりも幸せな気持ちでいたいのに、ぽつんと一人で泣きそうになっているなんて、馬鹿げている。こんなことになるならいっそ、来なければ良かったのだ。そうしたら、今頃何も考えないで笑っていられただろうに。 今の私には、うじうじ、という言葉が一番似合う。とにかく店を出て、マダム・ロスメルタの店へ行こう(彼が、そこで待っているかもしれない)。そう静かに決意して見下ろしたビスケットの箱は、さっきまでの輝きを失って見えた。 * * 「何、イタチごっこでもしてるの?」 「してませんよ」 「じゃあ、スパイ?」 「そんなわけないでしょう」 「ちゃん、大人は冗談は受け流すものなのよ」 「私は子供です」 「そんなこと言っちゃって!可愛くないわね」 私はスパイでもなければ可愛くもありません、と言い返そうとしたら、マダムは分かっているわよという風にちょこんとウインクした。さすがは大人の女だ。美しいというだけでなく、若者のあやふやな心の内まで読めてしまうらしい。私もいずれこんな魅力溢れる女性になれるだろうか…いや、なれやしない。この、ややこしい優柔不断な性格を直さない限りは。 「あの子も、あなたと同じような顔してたわ。はぐれちゃって、ここで待ってるんだとか言ってたけど」 「…そうですか」 「あれ?どこへ行ったか聞かないの?」 「聞いたって、行けませんから」 「もう学校へ帰ったわよ。あ、これは別にお節介じゃないからね」 脱力してしまった私の口からは、どれだけ頑張っても、短い息しか出て来なかった。マダムは既にさっきまでのやり取りはなかったものとして、気持ちを別のものに切り替え、今はまるでホッグズ・ヘッドの店主のようにグラスを熱心に磨いている。 彼女の機嫌はすこぶる良い。こうして私の相手をしてくれるのも、都合よくグラスを磨く気分になっているのも、今日はホグワーツからの客が多くて、席がいっぱいになっているから。繁盛している、と言うよりも荒れに荒れている、と言ったほうが正しいのかもしれないけれど、マダムはそれが嬉しくてしょうがないらしい。 「あらあ、どこへ行くの?」 「散歩です。じゃあまた、マダム・ロスメルタ」 「またね。今度は一緒にいらっしゃい」 確証なんてまったくないのに、はい、だなんてよくも言えたものだ。もはや意地だ。 * * 時計台が夕方の五時を知らせて、生徒たちの大半は遊び疲れた、満ち足りた表情で帰路につく。空はまだ夜になる気がないらしく、赤みを帯びたやや強い日差しを降らしているから、首の後ろが焼けたら嫌だなあ、と思いながら私はベンチに座り続けていた。広場のベンチはよく目立つ。前を通り過ぎていく生徒たちの中にある見知った女の子たちは、疲れているのか私の方に来ることはないけれど、にこにこと笑顔で手を振って去って行く。 ぼんやりしていると突然私の頭に誰かが触れたので、びくっとして顔を上げると、シリウスが仁王立ちで私の前に立っていた。 「、一人か?リーマスは?」 「ああ、シリウス。こんにちは」 「出かけるときは二人だったよな」 「途中で分かれたの。喧嘩しちゃったから…あ、喧嘩じゃないか」 「はあ?」 「気にしないでよ。ジェームズは?」 「朝からずっとリリーにつきまとってる。気の毒にな」 親友の名にかけて誰がとは決して言わないけれど、目を見合わせると相手の考えていることがはっきり分かったので、私たちは陽気に笑った。その空間は、とても心地良かった。シリウスは道行く人の視線なんて毛ほども気にせず、私の隣にすとんと座る。本格的に赤くなってきた太陽の光に照らされる彼の横顔は、日ごろ見慣れていても思わず見とれてしまうぐらい整っているから、私は気まずい思いを隠すのに苦労をする。 「…まあ、そんなことはどうでもいいんだ」 「うん。どうでもいいわね」 「よくないけど」 「どっち?」 「とにかくな、お前はしつこい。しつこいくせに鈍感すぎる」 「いきなり駄目出しですか?」 「リーマスも悪いんだろうけど」 「だからね、あれは喧嘩じゃないの。感情の行き違いなの」 「分かってるなら、どうして会いに行かないんだ?」 私が答えに窮すると、会いに行け、とシリウスは真面目な顔で言った。その表情が、人の心をすごく慰めるものだったので、不覚にも私はまた泣きそうになってしまい、慌てて袖で顔を拭った。シリウスのことを好きな女の子の多くは、彼の真の魅力を分かってはいない。それはたくさんの人が知るべきことではないのだ。 「行く。シリウス、ありがとう」 「おう。…あ、そうか。分かった」 「?」 「手持ちの荷物が少ない理由。一人だから」 「そうだよ。でも、今度ここに来たときは、見ててよ」 いっぱい残してきたものがあるから、また帰ってこなきゃなあ、なんてことを考えながら私は宣言した。 * * 談話室の隅っこのソファに、彼は座っていた。本を読んでいるから、少し近付き辛い。でも、仲直りしたいとその思いだけで何とか側まで行って、向かいのソファに腰を下ろした。リーマスは私が談話室に入ってきたときから、いや、城に帰ってきたときから私の存在をちゃんと察知していて、それでいてずっとずっと沈黙を守っているような気がした。そして、今はその沈黙を破ることしか私にはできないと思った。どうしてそんな風に思ったのか、自分でも分からない。 「私は鈍くて、リーマスが考えていることなんて、少ししか分からない。ごめんね」 「…どうしてが謝るの?」 冷たいとも温かいとも感じられる、抑揚を抑え付けた彼の声が、私の頭の奥の方をビリビリと痺れさせる。手も汗をかいている。ふと、他に道がないのは私のせいでも、選ばせるのは彼のせいだ、と私は感じた。その答えに十分満足した。今まで思いつかなかった考えに辿り着いて嬉しかったし、それに彼のまだ知らない魅力に触れた気がしたから。 「リーマス、気分を悪くしたでしょう?あんなに頑張ってお金を貯めたのに、いざという時に決断力も何もないし。怒るのは当たり前よ。直す努力はする。だから」 「謝るとか、許すとか、そういうことじゃないんだよ。」 「じゃあ、どういうこと?」 「僕が君を好きってこと」 私は彼が笑っていることに気が付いて、それと同時に、一緒にお金を節約していた時の連帯感とは違う、何か温かいものを心の中で感じた。これって、私も少しは鋭くなったということなのかな。 たっぷり、鼻の頭まで赤くなってから、私は口を開いた。うまく声が出るか心配だったけれど、思いの外簡単に、するりと言葉が飛び出してくれて、本当に良かった。今この瞬間だけでも、世界で一番幸せな人になれたかしら、どうかしら。 「ねえ、一緒にビスケットを食べようよ」 |